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なぜ年老いた親を介護するのか?

  人間の社会的な問題を、進化の観点や遺伝学といった観点から考えることは、とかく優生思想や差別的な思想が絡んでいると思われてしまい、特に生物学者や遺伝学者は社会的な問題にはなかなか近づこうとしないのではないかと思います。過去の悲惨な歴史もあり、そうなってしまうのもやむを得ないのかもしれませんが、高齢者の介護の問題や児童虐待、ひきこもりやうつ病など、人間社会が抱えている多くの問題は、生物学的、進化遺伝学的にみてみると、いろいろと多くの示唆が得られるのではないかと思います。W. D. Hamiltonの利他行動の遺伝学的進化の論文が発表され、その後社会生物学的な研究が進展するのは1960年代以降という比較的最近のことです。強い者だけが勝つのではなく、たとえ弱者であろうとも、助け合い、協調することで強者より優ることがあり、このような血縁者間の助け合いや互恵的利他行動のような行動に理論的な裏付けが与えられたのは、比較的最近のことですので、過去の、特に戦前の優生思想や優勝劣敗、弱肉強食といった生物進化観・自然選択観は、単純に誤った思想や世界観であったと私は思っています。また、私は大学院・ポスドクとして進化・集団遺伝学を学んできました。生物の形質を考えた時に、その形質は遺伝的要因によって影響を受けるとともに、環境的な要因によって影響を受けることも、当然のこととして考えています(特に量的遺伝学では両方の効果が注目されています。表現型=遺伝子型+環境の効果)。遺伝学を学んできた身として、遺伝学者を志してはおりますが、遺伝主義者にはならないように、固く戒めてきました。人間の性質、特に心理学的な性質については、遺伝学と遺伝主義を混同する人がとても多く、いらぬ誤解や混乱で、にっちもさっちもいかない状況がこれまでの学問の進歩の歴史の中であったことは、やむを得ないことだったのかもしれません。しかし現在、様々な困難に満ちた社会的な状況の中で、これらの困難を解決するために、様々な分野からの建設的な議論が早急に望まれていると思っています。  

 

 私は3年ほど前に、”Why do we care for old parents? Evolutionary genetic model of elderly caring.”(なぜ我々は年老いた親を介護するのか?高齢者介護の進化遺伝学的モデル)というタイトルの論文を遺伝学系の雑誌に発表しました (Open Journal of Genetics [2017] 7: 20-39)。日本のような少子高齢化が進行しつつある集団では、高齢者介護は大きな社会問題ですが、私はこの論文の中で、年老いた親を介護するという行動を進化遺伝学的な観点から考察し、その視点の持つ可能性について議論いたしました。確かに、このタイトルでは多少刺激的かなとも思いましたが、このタイトルだけをみると、「どうして年老いた親を介護なんかしなければならないのだ。コストばっかりで大変なだけではないか」ということを主張しているかのような印象を与えてしまったかもしれません。しかし、この論文を最後まで全部読んでくださった人であれば、そんなことを私はいっさい主張していないことは明らかだろうと思います。残念ながら、何人かの著名な先生方に別刷りを謹呈させていただきましたが、なかなか芳しい反応をいただくことはできませんでした。ちょっと長くなってしまったので、最後まで目を通していただく時間の余裕がなかったということも、その理由の一つであったろうと推察しております。そこで、少なくとも私がもっとも主張したかったところだけでも、ぜひ皆様に目を通していただきたく、最後の結論のところだけ和訳させていただきました。ご一読いただければ幸いです。

 

5.結論

進化という観点から見てみると、年老いた親を介護するということは、不適応的な行動であると考えられる。なぜならば、彼らは繁殖を停止しており、それゆえこの行動は、包括適応度における利益を産み出すとは考えにくいためである。このような行動形質が集団内に維持されるためには、何らかの大きな利益が他のライフ・ステージにおける親子間の相互作用に存在しているはずである。それゆえ私は本研究において、我々は乳幼児の時に、誰か(通常は親)が我々を実際に養育してくれる場合にのみ生存することができるという単純な事実に注目し、親による乳幼児の養育と子どもによる年老いた親の介護との間に、多面発現的な制約を仮定した進化遺伝学的モデルを用いて、高齢者介護の進化的メカニズムを議論した。

 特に人間にとって、人口減少のもっとも重要な帰結の一つは、集団増加に及ぼす高齢エイジからの影響の増大であり、最終的な集団の絶滅はもっとも重要な帰結だろう[1]。それゆえ、集団の高齢化と人口減少の悪化は、深刻な社会的危機をもたらすだろう。しかしながら、本研究で得られた結果から、年老いた親を介護するという行動は、社会的な状況が深刻な危機に陥るまで、集団から排除されないはずであると結論できるかもしれない(親と確固とした関係を築き、乳幼児期に彼らから養育を受けることは、たとえ将来年老いてしまった親を介護しなければならないとしても、このように大きな選択的有利性を持つだろう)。それゆえ、Medawarの警告文、もしくは映画『楢山節考』(木下恵介監督。70歳に達した高齢者は、その子どもに背負われて、楢山と呼ばれる山まで運ばれ、そこに残されて死を待つという、日本の貧しい農村の民話をテーマとしている)におけるような、状況が現在の状況のもとで起こるとは考えにくいと私は考えている。しかしながら、これは必ずしも絶対的なものではなく、年老いた親を介護するという行動は、集団の高齢化と人口の減少によって深刻な社会的危機が起こるならば、集団から排除される可能性があるだろう。しかしながら、強調すべき重要なポイントは、その場合に進化するはずである行動は、年老いた親の放棄だけでなく、乳幼児に対する高いレベルの養育、および他のライフ・ステージにおけるポジティブな相互作用の放棄である。なぜならば、高齢者介護は親子間の相互作用に、多面発現的な制約がなければ集団内に維持されないはずの行動形質であるためである。言い換えると、コストの非常にかかる高齢者介護という行動は、乳幼児期もしくは他のライフ・ステージにおける高い選択的有利性を伴わなければ、集団内で維持されないはずである。それゆえ、年老いた親の放棄が、児童期に親から高いレベルの養育を受けてきたという事実にもかかわらず進化するとは考えにくい。高齢者介護における深刻な社会的危機が起こってしまったら、単純に、高齢者介護を放棄した方が良いと考えるのではなく、年老いた親の放棄の影響は、親子間の相互作用の様々な側面にもたらされるかもしれないと考えるべきだろう。この意味において、Medawarの以下の記述は、非常に示唆に富んでいる。

      

『我々の関心が、乳幼児や若者における生命の保存にあり、それゆえ小児科学は、人々が「老年学」と呼び始めているものよりも永遠に優先されなければならないと議論する人々は、小児科学の帰結が、彼らが嫌がる高齢エイジまで若者を保存することであることを認識できていない。この種の区別は意味がない』(下線はMedawar自身による)[2]

 

 高齢者が容易に放棄される世の中は、また、乳幼児の生命が深刻な危機にある世の中であるかもしれない。実際に、南米パラグアイに生息していた祖先的な狩猟採集民族であったアッチェ族では、老人殺しだけでなく乳幼児殺しも一般的であった[29][30]。現在に生活している人々の観点から、どちらの世の中も幸福ではないであろう。しかしながら、高齢者だけでなく、児童の虐待も、我々の社会ではたびたび報道されている。この状況を、相対的に冷淡な対立遺伝子の頻度が、我々の社会において増加しつつあると考えるのは悲観的であろうか?

 高齢者介護施設における私の介護職員としての経験と、Introductionで引用したMedawarの警告文が、私にこの論文を書き、日本のような国々が現在もしくは将来直面する集団の高齢化と人口減少という深刻な問題を提起するように動機付けた。65歳以上の高齢者の割合は、2060年には日本の総人口のおよそ40%に達すると予測されている。これは現在のその数値のおよそ1.5倍である[4]。現在の介護条件の下で、介護施設における高齢利用者の数が1.5倍に増加した状況についてちょっと考えてみるならば、この状況がどれくらい深刻か、我々が想像することも可能であるかもしれない。しかしながら、この状況の本当の深刻さは想像することすらできないかもしれない。なぜならば、我々の想定を超える多くの出来事が、現在でさえも毎日のように起こっているためである。本研究における高齢者介護の進化遺伝学的モデルは、集団の高齢化と人口減少にさらされている仮説的な集団についての単純な数値モデルであり、親子の相互作用が多面発現的に制約されている程度のような、さらなる詳細について考える余地があるだろうが、私は社会科学や政治科学以外の様々な観点から、この深刻な問題を議論するために、高齢者介護の進化的メカニズムを提起した。老化の進化的メカニズムを提起した後で、Medawarは以下のように述べている。

 

...現在我々がナンセンスであるとみることができることの多くの中に、何らかの真実が存在し...それが後に続くものを引っ掻き回して、より洗練された説得力のある説明を考え出させるだろう』(下線はMedawar自身による)[3]

 

 

 私は、本研究で用いたモデルに何らかの真実が存在し、それが将来のために価値のある議論と建設的な批判をもたらすことができることを望んでいる。