銅メダル・コレクター
今これを書いている2021年6月、コロナ・ウィルス感染拡大への懸念のため、開催に反対されている方々も少なくないという状況の中、東京オリンピック・パラリンピック開催まであと1ヶ月ほどとなっています。オリンピック・パラリンピックといえば、アスリートたちの手に汗握る熱戦が楽しみではありますが、やはり、各国のメダル獲得競争にも思わず目がいってしまうものです。私は40歳を過ぎてからランニングに夢中になりはしましたが、それまではスポーツに真面目に取り組んだこともない、アスリートでもなんでもない、メダルよりもむしろ、メタボが気になるただの運動不足のオッサンです。そんな私ですが、20代後半の頃に、
「君は、銅メダル・コレクターか?」
と言われたことがあります。人からこのように言われたら、皆さんであればどう思うでしょうか?
たいして真面目に運動に取り組んでこなかった私ですので、何色だったとしても、メダルをもらえるというだけでひょっとしたら大喜びかもしれません。でも、日々頂点を目指して努力されているトップ・アスリートであれば、銅メダル・コレクターと人から言われることは、ひょっとしたら屈辱以外のなにものでもないのかもしれません。この言葉は、私が20代後半の頃に受験した筑波大学大学院での入学試験の面接の時に、10人近く私の前に並んでいた試験官の教授たちの中の一人から投げかけられた言葉でした。
私がこのときに受験した筑波大学大学院の博士課程は5年一貫制であったため、通常の学生であれば、大学の学部4年生である22歳ぐらいでこの試験を受けていることになります。しかし私はすでに他の大学院において修士号を授与されており、すでに20代後半となっていました。入学を許可されて筑波大学大学院で5年間博士課程を送るとなると、修了できたとしても、もうすでに30歳を過ぎ、さらには修士号がいくつも授与されることになってしまいます。ですから、あの“銅メダル・コレクター”という言葉は、私がいくつもの大学院を渡り歩いてきたことに対するその教授の懸念を表明した言葉、もっと正確に言えばイヤミであったわけです。学部からそのまま大学院へ進学する他のほとんどの学生の面接の場合には数分で済んでおり、面接を終えた学生がリラックスした顔で待合室に戻ってきていたのとは対照的に、私の面接は15~20分くらいかかっていたのではなかったかと思います。私も冷静に答えようと努力したつもりではありましたが、どうも面接官であった教授たちを熱くさせてしまったようで、一人の先生の怒りが他の先生へ移っていき、それが全ての先生に広がっていくのを、むしろ冷静に眺めていました。炎上というのはまさにこういう状態なのだろうと思います。私の前に居並ぶ教授たちから集中砲火をあびながら、もうダメだ、落ちたなと思いながら、辛うじて面接の終了が宣言されるまでその場にとどまり、ガッカリしながら面接室を後にしました。汗をびっしょりとかきながら、私が待合室に戻ってきた時に、次の順番の学生が「遅かったな」といっているのが聞こえてきました。
面接のときに、前に居並ぶ教授たちから集中砲火を浴びるという無残なかたちで試験を終えたものの、幸いなことに、筑波大学大学院には入学することができました。その筑波大学大学院を5年かけて修了し、その後研究者としての修行を重ねてきましたが、2008年に台湾から帰国して以降、研究者としての職を見つけることができませんでした。筑波大学大学院では指導教授のおかげで奨学金をいただきながら勉強することができたのですが、その奨学金の毎月の返済もあり、だんだんお金がなくなってくると、パン工場の製造スタッフや介護の仕事などをはじめとするアルバイトをしてきました。アルバイトの面接に行くときには、通常は履歴書を持参する必要があります。上述のように、大学院や研究室をいくつも渡り歩いてきたので、自分の履歴を余すことなく記入すると、履歴書のスペースが足りなくなってしまいます。アルバイトの面接に行くたびに、履歴を説明することが面倒になり、うんざりしてしまうのですが、そうかと言って書かないわけにもいかないので、どうにかならないものかといつも思っています。さらに悪いことに、採用担当者が自分の履歴を見ても、自分のこれまでの人生を理解してくれてはいないなあといつも感じてきました。私の履歴を見て、誰もがみなあの面接官であった教授のように、私のことを“銅メダル・コレクター”だと思っているのではないかと感じてきました。
私は、2021年1月に有限責任事業組合進化・高齢集団研究社を立ち上げ、これから到来するであろう超高齢社会に向かって、新たなチャレンジをこれから試みていこうと思っています。しかし、何をするにしても、私の履歴はつきまとってきます。今から20年以上前に、筑波大学大学院の面接官として私に“銅メダル・コレクター”という言葉を投げかけてくださったあの教授を納得させなければならないのだろうと思います。本当のことを言えば、“銅メダル・コレクター”かどうかは私自身にとっては大した問題ではないのですが、新たなチャレンジを本格的に始める前に、自分自身のこれまでの人生について振り返っておくことは大事なことなのではないかと思いました。というのは、50歳をすぎて、これからは忘れて行くことの方が多くなっていくだろうと思うためです。これを読んで、私がこれまで“銅メダル”を集めようとして生きてきたのかどうかを判断してもらいたいと思います。
『青空に飛ぶ』の衝撃
今のこの時点において、自分の人生について振り返っておこうと考えた理由はもう一つあります。私は数年間、主に認知症高齢者の介護施設において、介護職員として勤務してきました。ケアマネジャーの資格を取り、新たにケアマネとしての職場を探していたのですが、あいにく新たな職場を見つけることができず、止むを得ず介護の現場を離れ、学習塾で時間講師として働かせてもらってきました。アルバイトの時間講師として小学生や中学生、高校生たちと関わる中で、自分がこの子供たちと同じ頃のことを度々考えることになりました。彼らを眺めていて、今だからこそ理解できたことも多く、また私たちの頃とは違うなと思うこともありました。これには、自分が子供の時と比べて羨ましいと思うこともありましたが、その一方で、かわいそうだなと思うこともありました。そんな中、ある一冊の本を読んでとても衝撃を受けることになりました。鴻上尚史氏が書かれた『青空に飛ぶ』という本です。鴻上氏には『不死身の特攻兵』というベストセラーがあります。ベストセラーとなる本にはできるだけ目を通したいとは思っているのですが、なかなか時間もなくゆっくりと活字を追いかけるだけの余裕もなかったので、マンガ版の『不死身の特攻兵』を読ませていただきました。『青空に飛ぶ』という本はそのときに一緒に買ったのですが、読んでいて、気持ちが悪くなって、吐き出しそうになるくらいの衝撃を受けました。学校でのいじめにまつわる話だったのですが、読み終わってからしばらくの間、気分が沈んでしまって、とても暗い絶望的な気分になってしまいました。フィクションであることを祈ってはいますが、でも多分現実はもっと悲惨なのかもしれないとも正直思っています。この本を読んで以降、学習塾での子供たちとの関わりを特に意識するようになりました。子供たちと関わる中で、子供たちに伝えたいこと、話したいことがいっぱいあったのですが、時間がなくてできないことばかりであったことが残念です。
振り返ってみますと、節目節目でいろいろと思い戸惑いながら生きてきた50年間だったと思います。私のような人間がここまで生きてこられたのは、出会ってきた皆様のおかげだったと思います。お世話になった皆様に感謝以外ありません。特に、私はこれまで研究をしてきたので、研究を通していろいろな先生方と出会い、そしていろいろな研究や論文、著作に出会い影響を受けてきました。因縁と言いますか、人生の不思議さを改めて感じます。人からみればデタラメのように見える人生だったかもしれませんが、自分にとっては一直線で生きてきたのではないかと思っています。それをこれから説明していきたいと思います。