木村資生著『生物進化を考える』
確かに、一般教養課程で様々な学問に触れることができて、私自身とても勉強になったとは思いますが、そうは言っても、やっぱり専門課程で何を勉強するのかということは、私にとってとても大きな問題でした。他の大学を受験するという考えは、大学の2年生の頃にはすっかりなくなっていましたが、それでも専門課程で何を勉強すればいいのかについては、自分の中でまだハッキリとした見通しを持つことができませんでした。
そんな中、大学2年の夏休みに、ある本を読んでレポートを書けという課題が出されたのでした。2年生なので、週の半分は西千葉で一般教養課程だったのですが、残りの半分は松戸で専門課程が始まっていました。専門課程の中の「環境生物学」という授業だったと思うのですが、木村資生著『生物進化を考える』(岩波新書)を読んでレポートを提出するように言われたのでした。木村資生という人は日本を代表する科学者であり、進化生物学の分野において大きな功績を残された集団遺伝学者です。生物の進化というと、恐竜をはじめとする動植物の化石を思い浮かべる人も多いかと思いますが、集団の進化過程に対して数式を用いてアプローチしていく、遺伝学の中の一つの分野である集団遺伝学という分野を発展させた研究者の一人です。この著名な集団遺伝学者が、専門の理論家や実験家だけでなく、むしろ一般の読者を対象に、新書という形でまとめられたのがこの本でした。
もう30年以上前のことなので覚えていないことも多いのですが、この時に書いたレポートがまだ手元に残っています。A4のレポート用紙で提出することになっていましたが、B4の集計用紙で提出してしまい、手渡そうとした時に、課題を出された先生からA4のレポート用紙に書き直すように言われたのですが、私がブツブツと言い逃れしようとしたら、面倒になってしまったようで、「わかった、わかった」と言って、笑いながら受け取ってもらったことを覚えています。大学の学部生の時に課題でレポートを提出しても、先生から返却されることなどまずないのですが、このレポートはどういうわけか、今自分の手元にあります。この課題を出された先生はもう亡くなられているのですが、このレポートを自分に返却してくれたこと、そしてそれが今でも残っていることは、ちょっと不思議な気持ちにさせてくれます。
先ほども申し上げたように、木村資生という研究者は、進化の過程に対して数学的な手法を用いてアプローチしていく集団遺伝学者です。なので、一般の読者に向けた新書という形ではありましたが、この本の中にもいくつか数式が掲載されていました。夏休みに実家に戻った際に、私は地元の中学の時の友人と一緒に、この本の中に出てきた数式を、高校で学んだ数学を使って悪戦苦闘しながら導出したのでした。私は、高校の数学ではすっかり落ちこぼれてしまっており、数式の導出は中学の時の友人がほとんどやってくれたと思いますが、それでも本の中に出てくる数式を自分たちも導出することができたことが、とても嬉しかったのだろうと思います。実際、提出したレポートの半分近くは数式の導出に当てられており、微分方程式の計算をずらずらと書き連ねていました。理論的なテキストや論文などを読む時には、数式によく出くわしますが、どのようにして導出されているのか、現在でも論文やテキストを読みながら、紙と鉛筆を使って自分で実際に計算してみたりすることも多いのですが、この習慣も、大学2年の夏休みのレポートの課題で友人と悪戦苦闘しながら数式を導出したそのときから始まっていたのだろうと思います。
この本を読み、数理学的なアプローチを用いて進化的な過程を考えていく集団遺伝学という学問領域に興味を持つようになったと思います。確かに、環境生物学研究室のように、生物の進化とも多少関わりのある研究室もあったのですが、その一方で公園の緑地や植物の植栽、造園といったことを学ぶことも多かった園芸学部の環境緑地学科というところでは、集団遺伝学について触れる機会はなかなかありませんでした。なので、自分で遺伝学や進化学に関する本を集めて、チンプンカンプンでしたが理解しようと努めていたと思います。集団遺伝学の教科書にはよく章末に練習問題が出されていることが多いのですが、ワクワクしながら喜んで練習問題を解いていたと思います。現在のように通販で本を容易に入手できる時代とは異なり、当時は洋書など簡単には手に入りませんでした。大学の書店で遺伝学や進化生物学の本が並んでいるのを見かけると、学部の授業とは関わりなく、自分で集めるようになっていました。このような中で、以後の私の殺虫剤抵抗性の研究にも大きな影響を受けることになった遺伝学者J. F. Crowの存在についても知るようになっていきました。
後から振り返ってみますと、レポートの課題でこの本と出会い、そして中学の時の友人と一緒に悪戦苦闘しながら、この本の中に出てきた集団遺伝学の公式を導出したことは、自分の以後の人生にとって大きな経験であったように思います。
大学2年の時に出されたレポートの課題で呼んだ木村資生著『生物進化を考える』と、その時に提出した、B4の集計用紙に書かれたレポート。
地元の中学の時の友人とともに悪戦苦闘しながら、本の中に出てきた数式の一つを導出し、レポートにはその時の計算を書き連ねていました。今でも、教科書に出てくる数式がどのようにして導出されたのか知りたくて、紙と鉛筆を持って自分で計算したりすることもありますが、多分、その好奇心もこの時から始まっていたのだろうと思います。