フィットネス・コストの生理学
私は千葉大学の修士課程の研究において、殺虫剤抵抗性と高温条件下における発育阻害との関係について調べていました。モモアカアブラムシという単為生殖によって増殖する害虫において、有機リン剤に対して抵抗性を示しているある系統は、E4という特定のエステラーゼの活性が高く、しかも28℃という高温条件下において子孫の発育が阻害されることが、この研究室の先輩方の研究から明らかにされていました。昆虫の発育には幼若ホルモン(JH)が関わっていますが、JHにはエステル結合があるので、この系統の有機リン剤抵抗性に関わっている高エステラーゼ活性が、幼若ホルモンの分解にも影響を与え、子孫の発育阻害がもたらされているのではないかと考えたからでした。
実際、この抵抗性系統では、試験管内において、感受性系統よりもJHがより多く分解されており、エステラーゼ活性とJH分解による発育阻害との関係が示唆されるように見えました。しかし、他の有機リン剤抵抗性の系統でも、E4とは別のエステラーゼの活性が高く、実際にJHの分解活性も高いのですが、この系統の場合には発育阻害は見られていないとのことでしたので、抵抗性に寄与しているエステラーゼがJHの分解にも影響を与え、発育阻害が引き起こされているのではないかという仮説は成り立たないように見えました。しかし興味深いことに、発育阻害を示した抵抗性系統では、エポキシド・ハイドロラーゼというJH代謝に関与する酵素の活性が高く、この酵素の活性は他の系統には見られないものでした。よって、有機リン剤抵抗性と発育阻害との間には、エステラーゼとエポキシド・ハイドロラーゼ、幼若ホルモンがなんらかの形で関わっているように思われますが、残念ながら詳しいことは大学院在学中には解明することができませんでした。
このように、殺虫剤抵抗性に関わるメカニズムが、昆虫の発育といったまさに個体の適応度成分に、どのように関わっているのか、いわば、抵抗性の適応度コスト(あるいはアンタゴニスティック・プレイオトロピー)の生理・生化学的アプローチそれ自体は、とても興味がある問題であると思います。しかし、昆虫の体内で行われている膨大な化学反応のなかで、このような生理・生化学的アプローチでどこまで真理に迫ることができるのか、私が大学院生であった当時は、なかなか思い描くことができませんでした。もちろん、実験アプローチに対する好みの問題もあったと思います。例えば、抵抗性に関与する酵素の精製や生理・生化学的アッセイを先輩たちがやっているのを側でみていると、手先の器用さが求められているように思え、自分には向いていないかもしれないと思ったりもしました。もちろん、感受性の回復という現象には、進化・集団遺伝学的なアプローチから攻めなければ真理には近づけないとも思っていました。
実際、殺虫剤抵抗性と個体の適応度との間になんらかの関係があると示唆されている論文は、私自身がこれまで発表してきた論文も含めて、いくらでもありますが、殺虫剤抵抗性の適応度コストを生理・生化学的に研究し、抵抗性の適応度コストを引き起こす生理・生化学的メカニズムを明らかにしたという論文は、私の知る限りこれまで一本もないのではないかと思います。なので、千葉大学の大学院での研究は、とても興味深くはありましたが、とても困難なことも多かっただろうと思いますし、一大学院生が扱えるテーマではなかったとも思います。新たな技術や分析テクニックがもたらされれば、こういった研究分野も開けてくるのではないかとは思いますが、このような研究論文がこれまで一本も見られていないことからもわかるように、現在でさえも相当困難なことでしょうし、ましてや今から30年近く前であれば、一大学院生ではやっぱり大きすぎたテーマだっただろうと思います。殺虫剤抵抗性の遺伝的変異を集団遺伝学や進化遺伝学という枠組みの中で考えていこうというアプローチを志して、私は間違っていなかったと思っています。
今日はあいにくの雨だったのですが、上野の東京国立博物館に行って、聖徳太子と法隆寺展を観てきました。
聖徳太子の坐像を見たときには、まさに心が震えるような、不思議な気持ちになりました。1400年の時を超えて、本当に聖徳太子と向き合っているかのような、今まで経験したことがないような感覚がありました。こんなご時世ではありますが、自分が日本人であることを思い出し、誇りを感じさせてくれるような、とても貴重な時間を過ごすことができました。観に行って本当に良かったと思います。 三代