研究者の進む道
このように、千葉大学で2年間、殺虫剤抵抗性について研究させていただき、殺虫剤抵抗性の研究に対する当時の限界とともに、自分自身の興味の方向性をより明確に見出すことができたと思います。特に、殺虫剤抵抗性を進化・集団遺伝学的に研究していく方向性は、以後の自分の抵抗性研究にそのまま繋がっていくものであり、そう言った意味では、人生の連続性と言いますか、縁のつながりというものを感じます。具体的にいえば、先に抵抗性研究の限界と希望のところで述べた、千葉大学在学中に感じてきた抵抗性研究に関するいくつかの項目が、以後の私の研究課題となりました。
これまで述べてきたように、農学の枠組みの中で、殺虫剤抵抗性を進化遺伝学的に研究することは、当時の状況を考えると、ほとんど不可能だっただろうと思います。私が大学院生だった1990年代始めの頃には、まだ分子遺伝学的な手法が現在のように発達しておらず、みんな苦労しながら抵抗性のメカニズムについて、酵素を精製したりだとか、いろいろな試薬を用いて検定したりといったことが主流であり、抵抗性の発達を進化の過程として考えていこうという人はほとんどいなかったと思います。そうかと言って、進化や遺伝を研究している方々にとっては、殺虫剤抵抗性の発達という現象は魅力的には映らず、興味など持ってくれるような人はいなかったのではないかと思います。なので、当時は、どっちからアプローチしようにも、なかなか理解してもらうことができず、次の進路をなかなか見つけることができませんでした。
先ほども述べましたが、千葉大学大学院での指導教官はアメリカで長い間研究生活を続けてきた実績を持っており、環境緑地学科の他の先生方とはちょっと異質な、アメリカナイズされた雰囲気を持っていました。私たちと話をするときには、なにかとアメリカでの研究生活について語ってくれました。例えば、アメリカの研究室での研究や実験のことや、アメリカでの生活のことなど、私たちもとても興味深く聞かせていただいていました。特に私は、学部の2年生の時に、アメリカからメキシコまで、西海岸を長距離バスで1ヶ月かけて旅行したこともあり、海外での生活には興味がありました。なので、当然のことながら、私もアメリカでの研究にあこがれをもち、千葉大学でそのまま博士課程に進むのではなく、アメリカでの研究を志したのでした。もちろん、私たちの周りには、殺虫剤抵抗性を進化遺伝学的に研究できるような研究室がなかったため、アメリカであれば、興味を持って話を聞いてくれる人もいるのではないかと考えたためです。なぜならば、アメリカには、私が抵抗性研究を志すきっかけとも言えるような研究を行なったJ. F. Crowをはじめ、殺虫剤抵抗性を量的遺伝学的に研究しようとしていた人も何人かいたためです。
大学院にいたときから、留学するために、海外からアプリケーションを取り寄せたり、留学するために必要なTOEFLやGREという共通テストのようなものを受けたりして、いろいろと準備をしていました。しかし、現在のようにインターネットでマウスをクリックするだけで応募することができたり、電子メールですぐに相手から返事を受け取れたりできるわけではありません。基本的に、相手の学校とは、すべて手紙や郵便でのやりとりとなりますし、現在のようにコンピューターもあまり発達しておらず、タイプライターで文書を作成したりするなど、これが結構面倒で大変でした。結局、千葉大大学院は、次の進路がまだ決まっていないまま、修士課程を修了することになってしまいました。修了したばかりの頃は、まだ自分のやりたい研究に対する夢があったので、次の進路が決まっていなかったことに対してそれほど悲観することもなかったのですが、時間が経つにつれて、さすがに焦りとなりました。しかし、なかなか研究に向きあえなかったこの時期に、以後の私にとって最も有用な経験をすることができたと思います。それは、西欧人の考え方や英語で何らかの文章、特に論文を書くときの思想とでもいいますか、基本的な態度とでもいうようなものを学ぶことができたと思います。これらについては、次章でもお話ししていきたいと思います。
ここからは余談ですが、修士論文を指導教官にみてもらっていたときに、なかなか修士論文の原稿を返却してもらえませんでした。修士論文は事務の方へ提出しなければならず、その提出の期限があるため、もちろん提出できなければ留年となってしまいます。そうは言っても、恐らくいろいろな救済措置はあったのだろうとは思いますが、学生の身としては、やっぱり、卒業できないかもしれないと、とても不安になりました。確か、事務の方に提出する締め切りの前日くらいだったと思いますが、とても間際に指導教官から修士論文の原稿が返却された記憶があります。私の他にも同期の学生が何人かいたのですが、みんな締め切りに間に合わなくなってしまいそうでした。ものすごく焦りながら、みんなで論文をタイプしていたことを覚えています。当時はやりだったワープロで修士論文を徹夜で打ち直しました。ただでさえ不慣れなワープロでの打ち込みということに加えて、徹夜のため頭が働いていなかったこともあり、ワープロの操作を誤り、余計に時間がかかってしまい、本当に締め切りに間に合わない、などということにもなりかねない状況でした。焦りながらタイプしていたと思いますし、はっきり言って、とても頭にきていたと思います。今であれば、アカハラやパワハラなどといって問題になってしまうのかもしれませんが、大学院の修了がかかった修士論文の提出なのに、指導教官と学生という関係はアンフェアーな関係だなどと思いながら、同期の学生とぶつくさ文句を言いながら、徹夜をして何とか提出に間に合わせたのでした。期限までまだ2、3時間余裕はあったのではなかったかと思いますが、事務に提出しに行く時には、研究室のみんなから拍手をしてもらいながら提出しに行ったことをおぼろげながら覚えています。拍手に応えて、私も手をあげて「ありがとう、ありがとう」などと言いながら、事務所に向かったような記憶があります(もっとも、はっきりとした記憶ではないのですが)。
千葉大学大学院を卒業してから、もう30年近くたちます。アメリカでの留学から戻ってきた時の学会で姿をお見かけしたこと、そして、テレビのニュース番組の中でインタビューに答えている姿を画面越しに見かけたことがありましたが、卒業以来、このアメリカナイズされた指導教官とは直接お目にかかったことはありません。私が千葉大学でこの先生と出会うことがなければ、殺虫剤抵抗性の進化遺伝学的な研究というテーマにたどり着くこともできなかっただろうと思いますし、私の殺虫剤抵抗性研究の始まりとも言えるものだったと思いますので、千葉大学大学院の2年間は、私の研究人生にとっても、とても重要な部分を構成しているのだろうと思います。その後の研究については、これから述べていきたいと思います。
殺虫剤抵抗性の研究者として、このアメリカナイズされた指導教官も私も、お互いに正しいと信ずる道を歩んできたのだろうと思います。筑波大学大学院の面接の時に、“銅メダルコレクター”と言われてしまったように、他の人から見れば右往左往しているように見えるかもしれませんが、私の前には既存のレールはなかったので、それも仕方がなかったのかなとも思います。それでもなんとか道をみつけながら、私としては一直線に進んできたと思っています。自分の研究人生に後悔などあるはずもなく、また是非もないことなのだろうと思っています。
修了式は西千葉の、どっかの講堂でやったのではないかと思いますが、ほとんど覚えていません。まだ、大学の卒業式のときの記憶の方が残っていますが、どうだったでしょうか。この時はまだ進路が決まっていなかったので、修了式どころではなかったのではないかと思います。 三代