日本とアメリカの違い (3) プレジャリズム

プレジャリズム

 アメリカの語学学校で、英作文などの授業を受けていますと、例えば大学の課題で提出するようなレポートや、企業に提出する報告書の書き方のようなことを教えてもらうことがあると思います。その時に、課程の早い段階で、プレジャリズム(plagiarism: 剽窃、盗作)についての説明を受けると思います。このプレジャリズムに対するアメリカ人や西洋諸国の人々の考え方や態度と日本人の考え方や態度はかなり違うなあという印象を受けました。アメリカ人はとてもオリジナリティーを大切にしている印象を受けました。自分のオリジナリティーを主張することも多いでしょうが、それとともに他人のオリジナリティーを尊重しているとも言えるのではないかと思います。特に、盗作、もっといってしまうとアカデミック・ディスオネスティー(学問上の不正行為)に対しては社会的にとても厳しいという印象を持っています。例えば、大学でカンニングが発覚した場合には、教授たちによる査問委員会のようなものが開かれて、下手をすれば退学や追放のようなことにもなりかねないと教えられました。アメリカ人たちは小学生のようなとても早い段階でこのような教育を受けているのではないかと思います。なので、日本の感覚でレポートを書いていると、恐らく問題にもなりかねません。そこで、アメリカの語学学校で学んだときに感じた、日本とアメリカの学問に対する文化的な違いについて、簡単に述べたいと思います。

 

 語学学校ではよく、宿題としてエッセイを書くという課題を出されました。エッセイというのは、いってみれば、日本の大学でよく提出していたレポートのようなものだろうと思います。私も大学時代には、授業の出席代わりにレポートを提出しなければならない授業がありましたが、この日本で書いていたレポートと同じ感覚でエッセイを書いていました。まあ、はっきりといってしまえば、教科書や事典に載っていることをそのまま書き写すようなものです。日本の大学では、出席代わりにレポートを提出していましたので、教授も恐らくレポートの内容を読んでもいなかったでしょうし、書く側にしてもそれほど内容に気を配ることもなかったと思います。でも、これではアメリカの学校では通用しません。まず、自分がやったこと、言ったこと、思ったこと、感じたことと、他の人がやったこと、言ったこと、思ったこと、感じたことを区別しなければなりません。自分がやったことでなく、他の人がやったことであれば、それはちゃんと他の人がやったこととして、引用という形で明記しなければならないのです。その引用の仕方にもルールがあって、何通りかの仕方があります。通常は、引用先の文章を要約したり言い換えたりして引用しますが、引用先とまったく同じ文言を引用する場合にはクオテーション・マークとともに引用しなければならない、などといったルールがあります。特に日本人の場合には、英語のボキャブラリーもそれほど多くはないでしょうし、いろいろな表現方法を知っているわけでもないので、例えば、他の人の論文を引用しようという場合には、能動態を受動態に変えたり、同意語や類義語を調べたりといった、なかなか面倒な思いをすることが多いのですが、逆に言えば、引用のためのルールがしっかりと確立されているということは、それに従うことで余計なトラブルから自分自身護られるということでもあるので、必要以上に不安を感じたり、恐れたりする必要はないのだろうと思います。それでもやっぱり、ここら辺りのセンシティブな部分は、文化的な違いがとても大きく、日本人ではなかなか気がつかないこともあるかもしれないので、わからないところはアメリカ人の知人に尋ねたり、最終的にはネイティブ・スピーカーの友人、知人に文章を読んで確認してもらったりといったような配慮が必要なのかもしれません。

 

 日本の高校や大学で、レポートの書き方についてレクチャーを受けたことはありません。大学の授業でよくレポートを提出しましたが、例えば、本の引用の仕方や、引用文献のまとめ方など、日本の高校や大学で、もっとしっかりと教育されてしかるべき、とても大事な問題だろうと思います。出席がわりにレポートを提出させておいて、ろくにレポートの内容を読みもしないで処分されたりすることもあるという話を耳にしたりもします。世界がグローバル化し、特許や著作権などの国際的なトラブルも当然多くなりつつあると思いますが、日本でも中等・高等教育においてしっかりと、世界基準のレポートや論文の書き方を指導して欲しいと思います。例えば、よく日本の論文で目にする、引用文献と参考文献の違いなど、私はいまだによく理解できていません。そういった意味で、このアメリカでの語学学校では、日本では学ぶことができなかったとても重要なことを学ぶことができたと思います。