中学校で学んだ英語
ここで改めて日本における英語教育について考えてみたいと思います。塾で教えていた時にも強く思いましたが、日本における英語の教育は、外国の人々とコミュニケーションを図ることも多少は意識されているのかもしれませんが、何と言っても受験のためのものだろうと思います。最近ではリスニングやスピーキングの試験もあるようですが、なんといっても入試に対応した英語を教えることが何よりも優先されているのではないかと思います。この弊害は、入試であれば当然そうなってしまうのかもしれませんが、正解が一つしかないと知らず知らずのうちに思い込むようになってしまうことなのだろうと思います。例えば、私は中学の時に、“often”という単語の発音を“オッフン”のように、途中のtを発音しないように教わり、しかも入試の発音の問題でも、結構頻出の問題として教わった記憶があります。でも、私がアメリカで学んでいたときに、“オフトゥン”と発音している人に出会ったのでした。この人は、金髪の女性であり、生まれたときからアメリカで暮らしてきた人でした。つまり、アメリカには“オフトゥン”と発音する人もいるのです。このとき私が感じた驚きは、大事なところだと思うのですが、どう思われるでしょうか? 私がこのとき真っ先に感じたことは、“tは発音しないんじゃないの? この人は私が外国人だからわざとこんな発音をしているのではないのか?”ということです。つまり、中学校の偉い先生方がこう言っていたのに、本場のアメリカでは違う発音をしているじゃないか、ということでした。それまで常識だと思っていたことが覆されてしまうような、ちょっと目が眩みそうな感覚であり、大げさかもしれませんが、信じていたお上に裏切られたような感覚と言っていいと思います。
一口に英語と言っても、アメリカ人の話す英語もあれば、イギリス人の話す英語もあります。また、アメリカ人の中でも、白人の話す英語と黒人の話す英語があり、興味深いことに、黒人の英語は白人の話す英語とは文法も一部異なっているそうです。私は、スコットランドのエジンバラという街に数年間滞在していたことがありましたが、同じイギリス人の英語でも、ロンドンで耳にする英語とスコットランドで耳にする英語はまったくと言っていいほど違うように聞こえます。さらに、アジアなどから移住してきた、英語を母国語としない人々が話す英語もあるわけです。このように、一口に英語と言っても非常にバラエティーに富んだものであり、例えば倒置法などの文法を考えると、表現の仕方は“なんでもあり”であるかのような印象を私などは受けてしまいます。ちょっとした間違いでさえも表現の一つとすると、もう無限とも言えるくらいに多様なのではないかと思います。なので、海外に出ると、中学の時に日本で学んだ受験英語とは比べ物にならないくらい多様な英語に出くわすことになり、日本で学んだ英語がすべてである人がアメリカなどに行ったら、かなり面食らうことになるのだろうと思います。私自身もその一人でした。スコットランドについたはじめの頃に、電話でスコットランドの人と話をした時の衝撃と言いますか、混乱はありませんでした。相手が何を言っているのかさっぱりわからないのです。でも、それでも相手は英語を話していたのです。
子供達の中学校の英語の教科書をみていると、会話をとても重視していることがひしひしと感じられます。しかしその一方で、英語の世界にも相手に対する敬意を表す表現があり、公式的な場やフォーマルな状況で使わなければならない表現というものも厳然としてあると思います。会話の目的が相手とのコミュニケーションであり、それが心を通わせることができるものであることを期待するのであれば、形だけ会話を勉強しても、あまり実りがあるようには思えません。基本的に、日本で学ぶ英語は受験英語であり、答えは一つのものとして学んできます。でも、英語には恐らく無限の多様性があり、答えが一つであることの方が多分まれなのではないかと思います。その多様性が面白いところなのだろうと思いますが、そこらあたりを子供たちに教えてあげられるといいのになあと思います。その根本にあるのは、やっぱり相手の文化に対する興味や理解なのだろうと思います。なので、簡単なことではないとは思いますが、今後の教育の動向に注目していきたいと思います。