デラウェアから筑波へ
千葉大学の修士課程を修了後、デラウェア大学の修士課程でおよそ2年半の間、コロラドハムシというとても手間のかかる害虫を使って殺虫剤抵抗性の遺伝学を研究してきました。実験を行っていた期間中に、コロラドハムシの系統が絶えてしまいそうなくらいの激しい死亡率が長期間続いたり、コロラドハムシの餌となるジャガイモの新鮮な葉がなくなってしまったりと、とても苦労が絶えませんでしたが、デラウェア大学では修士課程の正規の大学院生でしたので、実験だけでなく、授業や定期テストなどの勉強にも励まなければなりませんでした。なので、今から思い返してみても、かなりしんどい、ハードな2年半だったなあとつくづくと思います。よくやったなあというのが正直なところです。アメリカの学生や留学生はどうやって学生生活を送っていたのかと今は思うのですが、特に勉強や実験で忙しくなってくると、食事をとることさえもままならなくなってしまいました。特に私の場合は車の運転免許がなく(もっとも免許を持っていたとしても車を運転する気もなかっただろうと思うのですが)、忙しくなってくると買い物にも行くことができず、とても困ったことになってしまいました。車社会と言われているアメリカで、車なしで生きていくことは、大都会であるならまだしも、デラウェアのような地方都市では困難だと思いました。そうかといって、ニューヨークのような大都会は、物価も高く生活も大変でしょうし、治安のこともあるので、それはそれでまた問題だったと思います。
修士課程も後半になってくると、デラウェアを卒業した後にどこに進学するかが問題となってきます。私は、一応アメリカの大学院も探してはいましたが、車を運転することなくアメリカで生きていくのは大変だと思ったので、日本に帰国することも選択肢の一つとして考えるようになっていました。殺虫剤抵抗性の研究はこれからも続けたいとは思っていましたが、研究の材料は、コロラドハムシのような手間のかかる大変な害虫ではなく、世代時間の短い、飼育するのが簡単な昆虫にしたいと考えるようになっていました。ある意味当然の選択だと思うのですが、コロラドハムシの場合、自分の中では、あれだけの手間と労力をかけたのに、壊滅的な打撃を受けたり、餌となるジャガイモがなくなってしまったりといったことで、得られた知見はそれほどでもなかったなあと思ったためでもあります。特に、アメリカでうまくいってない時には、大学院生として生きていくことはとてもしんどかったです。壊滅的な打撃を受けたり、餌がなくなってしまったりした数か月の間、実験がまったく進まず、いたたまれないような心境になりましたが、そのままじっとしていることもできなかったので、昆虫を使わなくても殺虫剤抵抗性についての洞察をうることができる数学的なモデルを使って考察したりなどして、それまで以上に自主的に勉強や研究に打ち込むことになりました。この苦しい時期の勉強が、のちの研究でも活きることになります。
日本から理学部・農学部関連の大学院の案内を送ってもらい、日本に存在する研究室について調べていましたが、その中でまず注目した点は、上でも述べたように、どんな昆虫を使って研究を行っているのか、ということでした。そして、これまでと同じように、殺虫剤抵抗性を集団遺伝学的に研究していきたいと思っていたので、遺伝学関係の研究室であるという点にも注目しました。世代時間も短くて、比較的飼いやすい昆虫を用いた遺伝学の研究室ということになると思います。そうすると、ショウジョウバエの遺伝学を扱っている研究室が真っ先に思い浮かびました。当時の日本にも、ショウジョウバエを用いて遺伝学的な研究を行っていた研究室はいくつかあったと思いますが、その中でも筑波大学にある進化遺伝学研究室に興味を持ったのでした。この研究室ではショウジョウバエの種分化が主に研究されていましたが、そのほかにも、乾燥耐性や低温耐性のような遺伝的変異についても研究されているとのことでした。殺虫剤抵抗性の研究を続けたいという気持ちももちろんありましたが、その一方で、デラウェアの大学院の昆虫生態学の授業の中で、ショウジョウバエの種分化、特にホールデンズ・ルール(Haldane’s rule)と言われる、雑種形成時の生存力や繁殖力に関する現象に興味を持ったことがあったため、たとえ殺虫剤抵抗性の研究ができなかったとしても、この研究室でホールデンズ・ルールのような、ショウジョウバエの種分化にまつわる何らかの現象の研究ができればと思い、とにかくこの研究室の教授にアメリカから手紙を送り、私の考えや思いを直接伝えたのでした。当時は現在のように電子メールも発達していませんでしたので、手紙によるやりとりが主なコミュニケーションの手段でした。
次の進路については、結局筑波大学の大学院しか受験しませんでした。コロラドハムシの研究が継続している中で、アメリカから一時帰国して大学院を受験することになるので、日本の大学であればいくつも受けられないだろうと思いましたし、ダメだったらその時にまた考えようと思っていました。デラウェアから一時帰国してこの時に受けた面接試験の状況については、はじめにの銅メダル・コレクターのところで説明した通りです。もうダメだと思いながら試験場を後にし、がっかりした気持ちでアメリカに戻ったと思うのですが、なんとか合格していました。本当であれば博士課程を修了していなければならない年齢で、5年間一貫の博士課程に入学することになるので、「こいつはものにならない」と反対された先生方も多かったのではないかと思うのですが、受け入れていただくことができ、幸福であったと思います。
P. S.
一昨日に2回目のコロナ・ワクチン接種を行なってきました。心配されていたように、昨日の昼過ぎより発熱がありました。体の節々が痛くなり、体調不良の為、終日横になっていました。解熱剤を服用し、水分の補給につとめたところ、今日はそれほど気分も悪くなく、比較的安定しています。ただ、激しい運動はちょっと無理そうなので、2、3日様子をみようと思います。みなさまも、どうかご自愛ください。 三代