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筑波での学生生活

筑波での学生生活

 

 私の高校時代を振り返ったところでも述べましたが、私が中退してしまった高校は生活指導が結構厳しく、柔道部をはじめとする体育科の教師が指導と称してよく暴力を振るっていました。その体育科の教師は筑波大学体育学群出身者が多かったので、私が高校生だったときには、筑波大学にだけはいくまいと思っていました。そんな自分が、大学院とはいえ、実際に筑波大学のキャンパスに立っていることには、正直違和感もあったのですが、私にとって大学の名前は多分どうでもいいことだったのだろうと思います。これまでの人生を振り返ってみても、高校は実際に中退してしまいましたし、最終学歴ではないので千葉大学の名前を出すこともこれまでほとんどありませんでした。アメリカのデラウェア州のことを知っている日本人はほとんどいないと思いますので、留学していたデラウェア大学の名前を出すこともこれまで滅多にありませんでしたし、筑波大学にいたっては、高校の時には絶対に行くまいと思っていたわけですから、はっきりと言ってしまえば、大学の名前なんて、私にとって多分どうでもいいことなのだろうと思います。ならばなぜ筑波大学に進学したのかと言えば、それはもちろん、やりたい研究をするためであったということができると思います。大学というよりもむしろ、研究室に対して私は帰属意識を持っていたのであり、どんなことをやったのか、どんな研究をしたのかということのほうが、私にとっては重要だったのだろうと思います。

 

 私が筑波大学大学院博士課程生物科学研究科に入学したのは、1997年の4月です。私は28歳になっていました。本当であれば、すでに博士課程を修了していなければならないような年齢です。私と同期に入学した学生たちの多くは、5歳以上離れていることになります。なので、他の年下の大学院生と同じことをしていてはダメだと思っていました。本当であれば博士号をすでに持っていなければならない年齢であり、大学院生であるとはいえ、これまで実際に研究を行ってきているわけですから、すでに博士号をとっている研究者と同じように論文を書いていかなければダメだという気持ちはとても強かったと思います。筑波の大学院に在籍している時から論文を書くことにこだわっていました。

 

 高校時代を振り返ったときにも述べているように、私は高校1年の時に寮に入り、生活のリズムを崩して自分自身を見失い、失敗してしまいましたが、筑波に進学した1年目に、お金を節約するために学生寮に入りました。先輩後輩といった上下関係や同級生との関係が厳しかった高校時代とは異なり、筑波大学の学生寮では人付き合いもまったくなく、寝に帰るだけの生活には多分十分だったのではないかと思います。もっとも、筑波大学の学生寮は監獄みたいなことで有名で、梅雨どきのような湿った時期になってくると、壁一面にカビが生えてきました。なによりも、それこそ監獄のように入浴時間が決まっていたので、生活が入浴時間で制約されてしまい、夏場などはなかなか風呂に入ることができず、とても不便であり不快でした。30歳近くになって、壁一面にカビが生えているような薄汚れた学生寮で生活していましたが、正直このときのことはあまり記憶に残っていません。よっぽどひどかったのかもしれませんが、記憶に残っていることといえば、カビが壁一面に生えていた牢獄のような部屋と、冷蔵庫がなかった部屋に一晩置いておいたコンビニの弁当を食べて、あたってしまったことくらいです。

 

 アメリカにいたときには、飼育が大変なコロラドハムシに振り回され、言葉もままならない中で大学院の授業にしがみつき、毎日悪戦苦闘していました。多分、周りのアメリカ人の学生たちからは狂人扱いされていたのだろうと思いますが、周りに親しい人もおらず、正直とても寂しかったと思います。アメリカから国際電話で日本の昔の友人に電話して慰めてもらったことも多々ありました。日本に帰ったら、今までできなかった分たくさん遊んでやろうという希望を抱きながら日本に帰国したと思います。しかし、私と同年代の多くの人々は社会人としてすでに会社などで働いている中、30歳近くにもなってまだ学生を続けようとしている私には、そのようなことは許されなかったのだろうと思います。筑波大学の指導教官から、「常識がない」とよく言われました。なので、すでに社会人となっている私と同年代の人たちに負けないように、筑波での5年間、一生懸命研究に打ち込んだと思います。しかしその結果と言ってはなんなのですが、筑波大学時代も、やはり周りには親しい人がおらず、いつも一人でした。20代の間は、この孤独が耐え難かったと思います。風呂を求めて2年目からはアパートに移ったのですが、アパートの部屋に一人でいると、寂しくなって、誰彼かまわず、昔の知人に電話をせずにはいられませんでした。でも、30歳を過ぎると、その孤独にもすっかりと慣れてしまいました。以来20年以上、女の子とデートをしたこともありません。女の子と楽しそうにデートをしている自分の姿を、もう想像することもできなくなってしまいました。人としてどうかとも思いますが、でも研究を続けるためには、そうでなければならなかったと思います。多分私のような不器用な人間には、あれもこれもという人生はできなかったのだろうと思います。筑波大学での5年間がなければ、次のステップであるイギリス・エジンバラ大学での研究生活はなかったと思いますし、さらに今の私の生活もなかったと思います。筑波大学の指導教官には、筑波での5年間でとても厳しく指導していただき、そしていろいろなことを勉強させてもらったと思います。