自然集団
ショウジョウバエを用いて殺虫剤抵抗性を研究するときに、以前にも述べましたが、J. F. CrowのDDT抵抗性に関する染色体分析(Crow, 1957)を無視することはできません。DDTに対して、ショウジョウバエの主要な染色体のすべてが抵抗性に寄与していたCrowの実験の場合には、大きなショウジョウバエ混合集団を実験室においてDDTで選択することによって得られた抵抗性系統を用いていました。集団中に複数の抵抗性の遺伝的変異が存在している場合、殺虫剤による強力な選択圧をかけてしまうと、抵抗性遺伝子を持たない個体は死亡してしまいますが、それぞれ別の抵抗性遺伝子を保有している個体は生き残り、それらの間で交配し次世代を形成することによって、複数の抵抗性遺伝子を保有する個体が産みだされてしまう、いわば抵抗性の遺伝的変異の集積とでもいうべき現象が起こってしまいます。なので、実験室で殺虫剤による強力な選択圧をかけて得られたような抵抗性系統を用いてしまうと、私たちもCrowの場合と同じように、主要な染色体がすべて抵抗性に関与してしまい、抵抗性を遺伝学的に解析するときには、ともに存在する他の抵抗性遺伝子の影響を受けてしまって、個々の抵抗性遺伝子を分析することが困難になってしまうだろうという懸念がありました。なので、実験室で殺虫剤による選択をかけずに抵抗性の系統を得るにはどうしたらいいか、ということがまず最初の問題になりました。
例えば、コロラドハムシであれば、この昆虫は大害虫ですので、この昆虫を防除するために殺虫剤を実際に散布しているようなジャガイモ農場で採集することができれば、抵抗性の系統が得られる可能性は高いと思います。といいますのは、この昆虫は本当によくジャガイモの葉を食べるので、実際には、フィールドにおいて、殺虫剤によるかなり強力な選択圧がかかっていると思われるためです。なので、ジャガイモ農場に出掛けてこの昆虫を採集すれば、抵抗性系統は得られると思います。しかし、ショウジョウバエの場合、この昆虫が害虫として扱われている地域はほとんどないでしょうし、特に身の回りの衛生状態もかなり良い現在の日本では、ショウジョウバエを日常の生活の中で見かけることも滅多にないのではないかと思います。なので、ショウジョウバエの場合には、そもそもどこでショウジョウバエを採集できるのかが、まず問題になりますし、その上で、殺虫剤抵抗性のショウジョウバエをどこで採集できるのかを考えなければなりませんでした。
私が筑波に入学した初めの頃に、指導教官と一緒に、早稲田にある国立感染症研究所の害虫防除室の先生のところにうかがって、殺虫剤抵抗性のショウジョウバエを採集できる可能性のある地域について、いろいろと助言をいただき、その時にいくつかの論文を紹介していただいたりしました。また、日本のショウジョウバエ自然集団に関しては、これまでにもたくさんの知見が蓄積されていたので、もちろん、これまでの研究を参考にしながら、私の研究で用いる殺虫剤抵抗性を発達させている可能性が高いキイロショウジョウバエの自然集団を採集する候補地として、いくつかの地点を選定しました。その中で、特に、当時夢の島と呼ばれていた東京湾のゴミの埋め立て処分場と、山梨県勝沼が有望な候補地としてあがりました。夢の島は、ゴミの埋め立て地ということもあり、ショウジョウバエは、空き缶などの容器の底に残っているジュースなどに集っていることがあるとのことでした。その一方で、夢の島ではイエバエがよく発生し、その防除のために殺虫剤が散布されていました。ショウジョウバエをターゲットとして殺虫剤が散布されていたわけではないのですが、大量に発生していたイエバエの防除のために大量の殺虫剤が散布され、イエバエの殺虫剤抵抗性が問題となっていた過去もあったとのことでした。なので、もしこの夢の島でショウジョウバエを採集することができれば、イエバエなどをターゲットとして散布された殺虫剤による選択圧に、ショウジョウバエも間接的に曝されていた可能性があり、抵抗性のショウジョウバエが得られる可能性がありました。もう一つの山梨県の勝沼はワインの生産地で有名であり、ブドウ園が勝沼および近隣の地域一帯に広がっていることで知られています。ワインの生産過程で廃棄される大量のブドウの搾りかすの上でショウジョウバエが大繁殖することから、勝沼は昔からショウジョウバエの採集地としてショウジョウバエ研究者の間で知られていました。とはいえ、ショウジョウバエ自体は当地では害虫として必ずしも認識されておらず、殺虫剤の直接のターゲットではなかったようです。しかし、他のブドウの害虫を防除する目的で散布されていた殺虫剤による選択圧に間接的に曝されており、ショウジョウバエにおいても抵抗性がある程度発達している可能性が、国立感染症研究所の調査によって報告されていたので、殺虫剤に対して抵抗性のショウジョウバエ系統が得られる可能性がありました。私たちの日常の生活の中では滅多にお目にかかれないショウジョウバエを大量に採集できるかもしれないということで、勝沼は採集地としてとても魅力的だったのですが、それとともに、筑波大学の進化遺伝学研究室出身の先輩が、勝沼と隣接している街の大学に勤務されていたこともあり、勝沼での採集でいろいろとお世話になることができたことも幸運であったと思います。
筑波から夢の島や勝沼に採集に行くことになるわけですが、もちろん、勝沼や夢の島に手ぶらで行くわけではありません。ショウジョウバエの採集には、バナナ・ベイト・トラップ法という方法を用いたのですが、この方法を使って採集するために、トラップとなる黄色い目立つバケツをいくつも持ち、ショウジョウバエをひきつける餌となるバナナを買い込んで、それなりの重装備をしていかなければなりませんでした。バケツにバナナを入れてつぶし、そこにイーストを振りかけ、穴の開いた蓋をして一晩、例えば勝沼の場合であれば、ブドウ園の脇の草むらのなかなどに置いておきます。次の日に再び訪れると、小さなハエがいっぱい集っているので、それらを捕虫網で採集することになります。はじめて勝沼に採集に行った時には、大量にショウジョウバエを採集できてうれしく思いましたが、しかしその分、筑波に戻ってからの実験室での作業がものすごく大変なことになりました。なので、最初のうちは、自然集団の採集は半分旅行気分で、うきうきとしたものでしたが、回を重ねるごとに、だんだんとその浮ついた気分もなくなっていきました。
筑波大学のネームが入った黄色いバケツを使って、私たちがショウジョウバエの採集を行っていたのは今から25年近く前のことになります。夢の島は当時すでに、埋め立てもかなりすすんでいて、害虫もそれほど大きな問題になっていなかったのではないかと思います。ショウジョウバエもそれほど採れませんでした。一方、ブドウ園が一帯に広がり、ワイン生産でも有名な勝沼では、結構たくさんのショウジョウバエを採集することができました。今から振り返ってみると、勝沼のキイロショウジョウバエ自然集団を中心に殺虫剤抵抗性について研究してきたことはとても幸運であったと思います。といいますのは、コロラドハムシのように純然とした害虫でしたら、殺虫剤散布の直接的なターゲットとなってしまい、殺虫剤による強力な選択圧にさらされて、殺虫剤抵抗性の遺伝的変異の集積が起こってしまっていたのではないかと思われるためです。このような状況の下では、Crowの結果に類するような事態がもたらされ、抵抗性を遺伝学的に解析するときにも困難があったと思います。しかしショウジョウバエは、勝沼では害虫として必ずしも認識されていなかったので、殺虫剤の直接のターゲットにはならず、他の害虫に対する殺虫剤散布の影響を間接的に受けてきただけで済み、強力な選択圧にもさらされることなく、結果として、抵抗性の遺伝的変異の集積もCrowの結果ほど大きな問題になることもなかったのだろうと思います。勝沼でショウジョウバエの自然集団を採集することに決めたことを含めて、ここらへんの微妙なところは、ショウジョウバエの研究室ならではの発想だったのではないかと思います。前にも述べましたが、私はもともと農学系の研究室出身であり、野外で採集した昆虫に対して、実験室で殺虫剤による選択をするということが、いわば常識になっていて、このような研究戦略を思いつきもしなかったのです。農学系の研究室で通常行われているような研究とは異なる視点を持って殺虫剤抵抗性を研究したいがために、アメリカのデラウェアから筑波大学の進化遺伝学研究室にはるばるとやってきたわけです。通常の、農学系の研究室ではなく、ショウジョウバエを用いた進化遺伝学の研究室で殺虫剤抵抗性を研究しようと志したことは、このショウジョウバエの勝沼集団を研究の対象にすることができたことだけでも間違っていなかったと思います。このショウジョウバエの自然集団を研究の対象にする戦略は、次で述べます1雌由来系統を作製するという方法とセットにすることで、さらに際立つことになります。