1雌由来系統の作製
勝沼でワインとブドウやモモのような新鮮な果物をお土産として購入しつつ、大量に採集されたショウジョウバエとともに筑波に戻ると、実験室での大変な作業が待っていました。といいますのは、採集されたショウジョウバエは1種類だけではなく、いろいろな種が混じっているため、それぞれの個体の種を確認して、キイロショウジョウバエのみを選別していかなければならないためです。ショウジョウバエ自体、とても小さな昆虫ですので、一見したところどれも同じように見えますが、実体顕微鏡の下で観察すると、それこそいろいろな種類が採集されていることがわかります。私が実験で用いていたのは、キイロショウジョウバエという、現代遺伝学に貢献することの大きかった昆虫種でしたが、これと近縁の種で、オナジショウジョウバエという、キイロショウジョウバエにとても良く似た種が混じっており、これは筑波にやってきたばかりの頃にはなかなか簡単に判別がつきませんでした。指導教官や慣れた研究者であれば、一目見ただけでわかったのかもしれませんが、私はまだショウジョウバエを扱いだした頃だったので、実体顕微鏡の下でじっくりと観察しながら、種を判別しなければなりませんでした。デラウェアでも昆虫の分類には散々泣かされてきましたが、筑波でもショウジョウバエの分類に悪戦苦闘することになりました。
慣れた研究者であれば、例えば眼の大きさからオナジショウジョウバエとキイロショウジョウバエを簡単に区別することもできるようでしたが、まだ慣れていなかった私のようなものがその方法でやってみると、大きさの違いとはいっても微妙な差でしたので、やっているうちにだんだん自信がなくなってくることになります。なので、ショウジョウバエの分類に実際に使われている検索表で定義されているような、もう少し細かい特徴を使って分類しなければなりませんでした。ショウジョウバエに麻酔をかけた状態で、例えば個体数を数えたり、形態に基づいて個体を類別したりするときに、ヘラを使ってこのような作業をするのですが、そのショウジョウバエ用の選別ベラで、雌の腹部に強すぎない程度で圧をかけると、麻酔している雌の後腹部からエッグガイド(導卵突起)が出てきます。オナジショウジョウバエの場合であれば、このエッグガイドには一本の筋が入っているのですが、キイロショウジョウバエの場合には、この筋はありません。この顕微鏡の下でやっと観察できるようなエッグガイドにある一本の筋の有無をもってオナジショウジョウバエとキイロショウジョウバエを区別することになります。この特徴を用いて分類すると、眼の大きさのような特徴を用いた場合とは異なり、やはり私自身確信をもって分類できるのですが、しかしそれだけ時間と手間がかかることになります。夢の島では100個体も採集できず、数十匹程度だったので分類の手間もそれほどではなかったと記憶していますが、勝沼の場合ですと、大量に採れすぎてしまい、何百匹、何千匹にもなってしまうので、このエッグガイドを使って分類することは、とてつもなく多くの時間と手間がかかってしまうことになります。これらの作業をやっているうちに、だんだんと嫌になってしまうのですが、それでも自信をもって分類するためには、私の場合には、この方法しかありませんでした。先に、旅行気分が回を重ねるたびにだんだんと失せていったと述べましたが、実験室に戻ってから、これらの手間のかかる作業が待っていたためであることをご理解いただけるのではないかと思います。
オナジショウジョウバエをはじめとする他の種からキイロショウジョウバエを選別したら、選別したキイロショウジョウバエの雌を、餌の入った飼育瓶に1匹ずつ入れていきます。採集されたショウジョウバエ個体は、勝沼のフィールドですでに交尾してしまっていたでしょうから、フィールドで交尾済みの雌をこのように1個体ずつ別々に飼育瓶に入れておくと、入れておいた雌はすぐに産卵し、やがてそこから幼虫が生まれ、成虫へと成長していくことになります。つまり、それぞれの飼育瓶から確立され、以後別々に継代飼育した個々の系統は、勝沼で採集された雌1匹にそれぞれ由来することになり、たとえばフィールドで100匹の雌が採集された場合には、もともとの自然集団は、100本分のこのような系統によってあらわされることになります。このようにしてできた系統は、いろいろな呼ばれ方をされているようですが、私たちは1雌由来系統と呼んできました。
野外のフィールドで採集された雌に由来する1雌由来系統を確立することは、ショウジョウバエ自然集団における遺伝的変異を研究するための基本的なアプローチを提供するものです(David et al., 2005)。例えば、野外の昆虫集団の抵抗性の研究では、採集してきた集団を同じ一つの大きな飼育箱に集めて、1つの大きな集団(マス集団)として維持する方法がよく使われていると思います。この方法ですと、何百、何千にもなってしまう系統を維持しなければならない1雌由来系統を用いたアプローチとは異なり、1集団を維持するだけですので、比較的簡単であり、手間もかからないと思います。しかし世代が経過するにつれて、例えば私のデラウェアでのコロラドハムシの経験のように、何らかの理由で壊滅的な打撃を受けたりしてしまいますと、結局数個体から次世代を始めるといった事態にもなってしまい、もともと存在していた遺伝的変異の多くが機会的に失われてしまうということも日常的におこってしまいます。これも、1つの集団として維持していたがためにおこった事態であり、そういった意味で、もともとの1つの自然集団を数十、数百の系統として維持している1雌由来系統のアプローチは、できるだけありのままの遺伝的変異を実験室において維持していこうとするアプローチなので、キイロショウジョウバエの自然集団に存在している遺伝的変異を研究するのに、より適していると言うことができると思います。しかし、何十、何百にもおよぶ系統を絶えず維持しなければならないので、その分、手間と時間、費用がかかってしまうことになります。また、1雌由来系統を用いたアプローチは、Crowの抵抗性の研究のように、大集団を殺虫剤で選択することもないので、個々の抵抗性の遺伝的変異を別々に維持し、それぞれの個体に抵抗性の遺伝的変異が集積することを防ぐことができます。遺伝的変異の集積が起こってしまうと、それぞれの抵抗性因子の遺伝学的解析の結果を解釈することがとても困難になってしまうことになります。加えて、このアプローチは手間がかかって大変ではありますが、四の五のと考えることもなくストレートフォワードに行うことができるので、これから述べるようなキイロショウジョウバエにおけるバランサー染色体のような特別な遺伝学的道具を欠いている他の昆虫でも、効果的に行うことができるのではないかと思います。
勝沼だけでなく、夢の島などの他の地点でも採集を行い、わずかでしたが実際にショウジョウバエを採集することができましたが、多くのショウジョウバエを継続的に採集できたこともあり、山梨県勝沼のキイロショウジョウバエ自然集団を私の研究の主要な対象とすることにしました。1997年と1998年のそれぞれ夏と秋に勝沼において、キイロショウジョウバエの自然集団を採集したのち、52系統から499系統の1雌由来系統を実験室において確立しました。ここで、私たちが採用した1雌由来系統を用いたアプローチは、通常の殺虫剤抵抗性の研究で用いられている集団飼育箱でマス集団を維持するアプローチとは異なることを確認していただきたいと思います。通常であれば、1997年の夏に採集された自然集団を集団飼育箱で維持し、例えば、このマス集団を以後の研究で用いることになるのでしょうが、私たちの場合には、1997年から1998年にかけて4回採集を行い、それぞれの時期で採集された集団から1雌由来系統をそれぞれ作製していることになります。あとで述べていきますように、このアプローチを用いて私たちも感受性の回復という現象を勝沼集団において観察することになりますが、通常の実験で用いられているような、実験室で維持している1集団の継続的な観察では、感受性個体の誤った混入の可能性を完全に排除することはなかなか困難なことですが、この1雌由来系統を用いたアプローチでは、採集地は勝沼で同じですが、それぞれの季節で作製された異なる系統を実験に用いているので、実験室における感受性個体の誤った混入の可能性は明確に否定することができます。この点でも、マス集団を用いた通常のアプローチとは異なる、1雌由来系統を用いたアプローチの有利性を示すことができると思います。
勝沼のキイロショウジョウバエ自然集団における殺虫剤抵抗性の遺伝的変異を研究するために私たちが採用した1雌由来系統を用いたアプローチの概略。自然集団の採集、1雌由来系統の作製までのことをまとめています。この後に、それぞれの系統についての殺虫試験による抵抗性の評価などが続くことになります。 三代