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筑波大学での研究(5)バランサーを用いた染色体置換

バランサーを用いた染色体置換

 すでに述べたように、殺虫剤抵抗性のメカニズムには、殺虫剤が作用するアセチルコリンエステラーゼのような作用点の変異をはじめ、P450やエステラーゼなどのような、もともと昆虫体内での代謝を触媒する酵素の変異による解毒分解活性の増大など、いくつか知られています。私が千葉大学の大学院にいた当時から感じてきた抵抗性研究にまつわる多くの疑問のなかの1つは、このように殺虫剤抵抗性のメカニズムがいくつも知られているなかで、集団の遺伝的変異にこれらのメカニズムの一部、もしくはすべてが含まれている可能性を排除し、集団中には一つしか抵抗性のメカニズムがないと考える根拠は一体なんなのか、何も調べていないうちから一つしかないと考える根拠とはいったいなんなのか、ということでした。何度も述べているように、ショウジョウバエの抵抗性の研究ではJ. F. Crowの研究があるので、少なくともショウジョウバエについては、何も調べていないうちから集団中に抵抗性の遺伝子が1つしかないと考えることは合理的ではないと考えてきました。J. F. Crowのように、主要な染色体のすべてが抵抗性に寄与している可能性があるならば、抵抗性系統に存在している染色体をそれぞれ別々に分析しなければならないことになります。なので、集団中に複数の抵抗性遺伝子が存在する可能性があるという前提から抵抗性の研究を始めるならば、抵抗性系統に存在する染色体を、例えば殺虫剤に対して感受性の系統が有している染色体で置き換えて、さまざまな染色体の組合せを持つ系統をいくつも作り出す必要が出てきます。

 

 通常の農業害虫の場合、このように染色体を系統間で入れ替えようとすれば、系統間での交配時に染色体間で乗換えが起こってしまうため、かなり工夫しなければならないでしょうし、そもそも染色体を入れ替えようなどという戦略を取れない場合も多いのではないかと思います。しかしキイロショウジョウバエの場合には、バランサーという、染色体上の遺伝子間の組換えを見かけ上抑制する染色体が存在しており、このバランサー染色体を複数有する系統をうまく用いることによって、染色体間の乗換えをおこすことなく、染色体を系統間で置換することが可能になります。実際に、バランサー系統を用いて、抵抗性系統と感受性系統の間で染色体置換系統を作製し、第2染色体と第3染色体から有意な抵抗性の効果を持つ因子を検出することができました。このようなことができたのも、キイロショウジョウバエという、遺伝学に貢献することの大きかった昆虫を用いたことによるものであり、さまざまな遺伝学的ツールが備わっていたためであるといえると思います。他の害虫ではこのようにはいかなかったでしょう。

 

 しかしその一方で、抵抗性の遺伝的変異を分析するために必要な、系統内に遺伝的な変異がない系統を作製するときに、私は、同一の系統内の近縁な個体間で交配を何世代も繰り返すことによって、近親交配系統を作製しました。もしバランサー系統を用いていれば、ほんの数世代で、例えば同一の第2染色体を2つとも保有している第2染色体抽出系統を作製することも可能だったはずなのですが、私はこれまで農業害虫を実験材料として用いてきた、純粋なドロソフィリストではなかったので、バランサーを用いて同一の染色体をもつ系統を作出するという発想はできませんでした。キイロショウジョウバエに特有の実験テクニックのような、この昆虫に関連したいろいろなアドバンテージを知らないことも多かったと思います。しかし今から振り返ってみれば、勝沼集団の場合には、第3染色体上には比較的大きな効果を有する抵抗性遺伝子が存在していたため、野外で採集されたショウジョウバエから、バランサーを用いて直接第2染色体を抽出して、同一の第2染色体を2つとも保有する系統を作ったとしても、統制することができない第3染色体に由来する比較的大きな抵抗性の効果のために、第2染色体上の抵抗性遺伝子の効果がマスクされてしまい、きっと、遺伝学的解析の結果を解釈することが困難になってしまっただろうと思います。最悪、誤った判断をしてしまっていたかもしれません。一方、第3染色体を抽出したのであれば、第2染色体の抵抗性と比べて、その効果は大きいので、ほとんど困難はなかったかもしれません。しかしそれは今だから言えることであり、私たちは研究を始める前には、抵抗性因子の数、染色体上の位置、相対的な効果の大きさに関する情報を持ってはおらず、初めからこのようなアプローチをとることにはリスクがあったと思います。安易に実験上の便利なテクニックに頼らず、かえってよかったのかもしれません。キイロショウジョウバエの勝沼集団内の殺虫剤抵抗性における遺伝的変異を研究する第一歩として、採集してきた自然集団から1雌由来系統を作製し、時間はかかりましたが、近親交配系統を作製してから染色体置換を行うアプローチを採用して、かえってよかったのではないかと今では考えています。