有機リン剤に対する感受性の相関の遺伝学的基礎
上で述べた抵抗性系統について、それらの系統が保有している抵抗性因子をこれから詳細に調べていくことになりますが、勝沼のキイロショウジョウバエ自然集団には複数の抵抗性の遺伝子型が混在していることが示唆されました。これまでたびたび述べてきましたが、複数の抵抗性遺伝子が集団中に存在している可能性がある場合には、特別な注意が必要であり、そのために特別なテクニックを用いて検討していかなければなりません。
例えば、通常の感受性の遺伝子型では死亡してしまう殺虫剤濃度でも生き残ることができる抵抗性の系統が得られたとします。この系統の抵抗性が1つの遺伝子によってもたらされているのか、それとも複数の遺伝子によってもたらされているのかを判断することは、この系統を外から眺めていただけでは当然わからないですし、なんの情報もない段階では、判断することはできないはずです。なぜならば、1つしか抵抗性遺伝子を持っていない場合でも、複数の抵抗性遺伝子が存在している場合でも、どちらの場合であっても、抵抗性になる可能性があるためです。ここのステップを省いてしまい、例えば系統が複数の抵抗性因子を保有しているにもかかわらず、1つしかないと決めて分析してしまうと、結果を誤って解釈してしまう可能性が出てきてしまいます。なので、できるだけ正確を期するならば、余分なステップを踏まなければならないことになります。すなわち、抵抗性系統が持っている染色体を感受性系統の染色体で置き換えた系統(染色体置換系統)をいくつか作製し、ともに存在している可能性のある他の抵抗性因子の影響をできるだけ排除した状況で、それぞれの遺伝子を分析しなければなりません。そこで、先ほど説明したバランサー系統を用いて、ともに勝沼自然集団から得られた抵抗性系統と感受性系統との間で染色体置換系統を作製し、それらの系統を用いて、有機リン剤に対する抵抗性への、それぞれの染色体の寄与について評価してみました。
具体的には、1雌由来系統の段階での殺虫試験で、3つの有機リン剤に対して低い死亡率を示した#1465を抵抗性系統として、3つの有機リン剤に対して高い死亡率を示した#451を感受性系統として選び、これらの系統からそれぞれ#1465-5、#451-10という近交系統を作製し、バランサー系統を用いてそれらの間で染色体置換系統を作製しました。これらの染色体置換系統を用いて、3つの有機リン剤に対する抵抗性の染色体分析をおこなったところ、抵抗性の#1465-5には、第2染色体だけでなく第3染色体からも抵抗性の有意な効果が検出されました。用いた抵抗性系統は、もともとは勝沼で採集された1匹の雌に由来しているので、この染色体分析の結果は、勝沼のキイロショウジョウバエ自然集団には少なくとも2つの抵抗性因子が存在していたことを意味するものです。ただ、ここで注意してもらいたいことは、少なくとも2つの抵抗性因子が集団内に存在していたということが何を意味しているのかということです。簡単な記号を用いて説明しますと、勝沼の有機リン剤抵抗性にはAとBという遺伝子座が関与し、抵抗性の対立遺伝子を大文字で表すとしますと、抵抗性近交系統の#1465-5はAABBという遺伝子型として表現することができ、感受性近交系統の#451-10はaabbという遺伝子型として表現することができます。この2つの遺伝子座は第2染色体上と第3染色体上にそれぞれ存在していたので、お互いに独立であるとすると、集団においてAABBとaabbが存在していたということは、勝沼集団においてランダムに交配が行われていた場合、AAbbやAabb、aaBBやaaBbのような、一方の遺伝子座にしか抵抗性因子を持たない個体も当然のことながら集団中に分離してくることを意味することにもなります。2つの遺伝子座のどちらか一方にしか抵抗性遺伝子が存在しない遺伝子型は、#1465-5の染色体置換を行うことによって実際に作出することができるので、勝沼の自然集団にも存在していたことは、間違いはないだろうと考えられます。実際に、抵抗性系統として勝沼集団から選び出したもう1つの抵抗性系統である#609-10からは、第3染色体からのみ、3つの有機リン剤に対する抵抗性の効果が検出されました(この系統については、あとの研究のところで詳述します)。よって、これらの結果から、勝沼のキイロショウジョウバエ自然集団が、有機リン剤に対する抵抗性について、さまざまな遺伝子型を有する個体が入り混じったものであり、それらの遺伝子型は少なくとも2つの抵抗性因子から構成されていることが示唆されるわけです。同じ勝沼集団から、2つの抵抗性因子を有する系統(1匹の雌)と1つの抵抗性因子しかもたない系統(1匹の雌)が得られたということは、もともとの勝沼集団が、昆虫の自然集団としては極めて妥当な状態である、様々な遺伝子型が入り混じった集団であることを意味するものでしかなく、決して矛盾する結果ではありません。
これらの結果は、#1465-5に存在していた2つの抵抗性因子を分析するためには、それぞれお互いの影響を排除した状況の下で分析しなければならないことを意味するものであり、それゆえ、#1465-5に存在していた2つの抵抗性因子のマッピング(位置決定)は、それぞれの抵抗性因子を1つしか持たない染色体置換系統を用いて行いました。染色体上の遺伝子の位置がすでに分かっている可視突然変異系統をいくつか用いて、3つの有機リン剤に対するそれぞれの抵抗性因子のマッピングを行ったところ、第2染色体上の抵抗性因子については~II-62近辺に、第3染色体上の抵抗性因子については~III-50近辺に、それぞれマッピングされました。勝沼集団において、3つの有機リン剤に対する感受性の間にはポジティブな相関が観察されていましたが、これらのマッピングの結果から、観察されたポジティブな相関には、3つの有機リン剤に対する共通の抵抗性因子が少なくとも2つ関わっており、この2つの共通の抵抗性因子は、それぞれ、3つの有機リン剤に対する異なる特性を有していることが示唆されました。複数の殺虫剤に対して抵抗性を示す交差抵抗性という現象は、これまで1つの共通の抵抗性因子によって説明されることが多かったのですが、交差抵抗性にも、それぞれ異なる特性を持つ2つの共通の抵抗性因子が関与している場合があることがわかり、交差抵抗性がこれまで考えられていたほど単純な現象ではないことがわかったのではないかと思います。