有機リン剤抵抗性の季節的変動の遺伝学的基礎
遺伝的変異の季節的変動のところで述べたように、1雌由来系統の殺虫試験の死亡率データを集団のレベルでまとめて分析した結果において、有機リン剤に対する感受性の遺伝的変異が季節的に変動していたことを観察しました。勝沼のキイロショウジョウバエ自然集団において観察された、この有機リン剤抵抗性の季節的変動という現象についても、得られた1雌由来系統を用いることによって、その遺伝的基礎について検討を加えました。
1997年の夏に採集された勝沼集団から作製した1雌由来系統のなかから、抵抗性系統として#609、感受性系統として#451を選び出し、それぞれの近交系統である#609-10と#451-4との間で、バランサー系統を用いて染色体置換系統を作製しました。先ほどの抵抗性近交系統#1465-5の場合と同様に、3つの有機リン剤に対する抵抗性の染色体分析を行い、どの染色体上に3つの有機リン剤に対する抵抗性因子が存在しているかを検討しましたが、今回はそれに加えて、さらに産仔生産力という形質についても染色体分析を行いました。
遺伝的変異の季節的変動の節において議論したように、私たちは、勝沼集団における有機リン剤抵抗性の季節的変動には、抵抗性の遺伝子型の間で、生存や繁殖に関わる形質である適応度に差があり、特に勝沼の場合には、集団が秋に増加するというこれまでの知見や私たちが採集を行ったときの経験に基づいて、集団が増加していく過程において抵抗性の遺伝子型の間で適応度に差があり、抵抗性の遺伝子型は感受性の遺伝子型とくらべて繁殖能力が低く、その結果秋集団では集団内において頻度を減少させてしまうために抵抗性レベルが低下し、感受性が回復するのではないか、という仮説をたてたのでした。特に、有機リン剤に対する感受性の季節的変動は、3つの有機リン剤の間で類似した傾向を示していたことから、抵抗性因子は3つの有機リン剤に対する共通の因子であることがこれまでの研究において示唆されてもいるので、もしこの仮説が少なくとも一部は満たされているならば、同じ勝沼の自然集団から作製した抵抗性系統と感受性系統の間で染色体分析を行った時に、3つの有機リン剤に対する抵抗性へのポジティブな効果と、増加過程に関わる適応度成分に対するネガティブな効果が、同じ染色体上から検出されることが期待できます。このように、1雌由来系統を用いることによって、集団のレベルで観察された感受性の回復現象についても、その遺伝学的な基礎について検討を加えることができます。
集団の増加過程に関わる適応度形質として、ここでは産仔生産力に注目しました。適応度という形質は、生存や繁殖に関わるさまざまな成分が関わっているとても複雑な形質であり、一言で言い表すことがとても難しい概念を含んだ形質であるといえます。例えば、私が行った実験においても、実際に、子孫を産み出さない反復があったりもしたのですが、適応度にはさまざまな成分が関わるという観点から、そのような反復については、産仔生産力という形質とは別の異なる適応度成分が関わっていると考え、繁殖するかしないかという別の繁殖的な能力に関わる形質として、別々に分析することにしました。実際、統計的な分析におけるデータの分布(正規性)のことを考えると、このデータの処理は妥当なものであったといえるだろうと思います。ただ、産仔生産力は、集団の増加過程における重要な適応度成分であることに疑いはないと思いますが、あくまでも適応度を構成する1つの成分でしかありません。それゆえ、上述のような、子孫を産み出すか産み出さないかという繁殖的な能力などといった他の適応度成分の影響も一緒に統合された、遺伝子型の適応度そのものについて、以後も検討を重ねていきました。具体的には、集団の増加過程における遺伝子型の適応度の尺度として、遺伝子型の内的自然増加率を考えることによって、産仔生産力だけでなく、子孫を残さなかった反復の結果も含めて分析することが可能となりました。この分析の詳細については、次章以降で説明したいと思います。
3つの有機リン剤に対する抵抗性と、集団の増加過程において重要な適応度成分である産仔生産力についての染色体分析の結果、抵抗性系統の#609-10からは、第3染色体からのみ、3つの有機リン剤に対する抵抗性の効果が検出されました。そして、私たちがたてた仮説を支持するように、3つの有機リン剤に対する抵抗性因子が存在する第3染色体上から、産仔生産力に対するネガティブな効果が検出されました。ここで注意しなければならないのですが、抵抗性系統の#609-10の第2染色体からも、産仔生産力に対するネガティブな効果が検出されました。#609-10の場合、第2染色体は抵抗性には寄与していないので、抵抗性系統には抵抗性とはかかわりのない有害な変異もまた含まれていたことが示唆されます。このことは、抵抗性系統と感受性系統の間で適応度を比較しようとする場合には、抵抗性とはかかわりのない有害な変異による影響の可能性があるため、単純にそれらの系統の間で適応度を比較して得られた結果には注意が必要であることを意味します。私たちの場合のように、抵抗性因子が存在している第3染色体以外の染色体を感受性系統の染色体でそろえた染色体置換系統との間で比較することによって、他の染色体上に存在している有害な変異の影響を回避することができ、以後は、第3染色体以外は感受性系統の染色体で置き換えた抵抗性の染色体置換系統と感受性系統について得られた結果を用いて研究を進めていきました。