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筑波大学での5年間(1)

筑波大学での5年間

 

 千葉大学の大学院で修士課程を修了し、そこからデラウェア大学の大学院で修士課程を修了してから筑波大学大学院の博士課程にやってきました。筑波大学に入学したときには、もうすでに博士の学位を授与されていてもおかしくはない年齢となっていました。年齢だけをみてみれば、いわば博士課程を2度繰り返すようなものだったのかもしれません。私が大学院生だった当時、筑波大学大学院の博士課程では、学位の取得要件として、英文の投稿論文を2報発表するという要件がありました。私が筑波にいる間に論文を4報投稿し、雑誌に受理してもらうことができたことは、博士課程を2度繰り返すことの責務を、一応形の上だけでも果たすことができたのではないかと思います。もっとも、筑波大学での5年間に行った研究の結果から、論文をトータルして10報近く発表することができたので、形の上では博士課程を何回も繰り返したことになるのかもしれません。まあ、私よりも年下の人が、私と同期であったり先輩だったりして、私自身それについては何のこだわりもなかったのですが、なかにはこだわる人もいたようなので、年齢に相応した結果を、一応形の上だけでも残せたのではないかと思っています。

 

 入学試験の時の炎上面接のこともあり、恐らく私の入学について、他の多くの教授たちから反対されていたのではないかと思うのですが、私のことを受け入れてくださり、筑波大学の指導教官には感謝以外ありません。こんな状態で入学してきたので、先生も私のことを哀れだと思ってくださったと思うのですが、博士前期課程では大学院生のうちの数人しかもらえなかった、当時育英会といわれていた奨学金を私のために取ってくださったのでした。筑波在学中は、ただ研究室とアパートを往復していただけだったので、奨学金はとてもありがたかったのですが、しかし筑波大学を卒業してみると、5年間でトータルして数百万円の返済が残されることになりました。中古ですが高級外車が買えてしまう金額です。ここまで研究を続けてきたので、できれば研究者としての職を探していたのですが、毎月の返済は重くのしかかり、ポスドクのときの給付金や、さらには介護のアルバイトなどで得た収入をやりくりしながら返済をしていきました。すべての返済が終わるまでは、いつも気分が重く、心が晴れることはなかったと思います。この鬱屈した気分がどうにも嫌だったので、何年か分を前倒して、まとめて返済し、奨学金のすべての返済をなんとか終えることができました。返済を終えた時には、正直、もうなにも思い残すことはないと思いましたし、心が安らかになれたように思います。それだけ月々の返済が重くのしかかっていたのだろうと思います。それと同時に、日本のこの奨学金の制度では、学生が日本で研究を続けることは大変だと思いました。アメリカやイギリスで実際に研究をしてきたので、この日本と欧米先進国との違いは、身に染みて実感することができます。これからを担う日本の若者たちが、目先の経済的な利益を優先し、地道な学問の世界から離れてしまうことがないように、少なくとも欧米先進国並みの学生のサポートの充実を、将来期待したいと思います。


最近、YouTubeで配信されている、大学受験用の『世界史』の授業を毎日のように拝見させていただき、とても勉強になっています。その中で、これまでの歴史の中で『債務奴隷』が作られてきた仕組みが説明されていたことがあり、なるほどなあと納得することができました。今の日本において、大学や大学院で奨学金をもらいながら勉強することは、ひょっとしたら『債務奴隷』を作り出すシステムとして考えられているのではないかとさえ思っています。労働力が不足しつつある現在の日本において、大学や大学院で勉強することは、あまり重視されていないのではないかと思います。日本の大学で学ぶ若者たちの将来に、とても強い危機感を感じています。  三代