殺虫剤抵抗性の遺伝的変異の集団遺伝学

殺虫剤抵抗性の遺伝的変異の集団遺伝学

 

 ある生物学的現象のメカニズムを研究しようとするときには、いくつかの興味のレベルがあります。それを認識できていないと、議論がすれ違ってしまうことにもなりかねません。もちろん、いくつものレベルがあると思いますが、大きく分けると、進化的な側面(究極的メカニズム)に注目している場合と生理・生化学的な側面(至近的メカニズム)に注目する場合があると思います。例えば、エジンバラ大学で私も関わらせていただいた老化の進化に関する研究では、老化の進化のメカニズムに焦点が置かれていました。つまり、老化が進化していく過程において、自然選択や突然変異といった進化的な要因が果たしている役割についての洞察を得ることを目的としていました。なので、活性酸素の影響やお肌の衰えなどのような、医学や美容の領域で研究されているような至近的な老化のメカニズムを探る研究とは、焦点を置いている側面が異なっていることになります。つまり、老化に関する研究には違いないのですが、老化の進化のメカニズムと老化のメカニズムは、興味の対象としている側面が異なっていることになります。実際に研究している研究者が、どの側面に注目して研究を行っているのかを正しく認識していないと、よくあることなのでしょうが、例えば、質問に対して期待されたような答えが得られない、議論がかみ合わない、すれ違う、などといったことになってしまいます。

 

 筑波大学の大学院では、キイロショウジョウバエの勝沼集団が、ワインの製造過程で廃棄されるブドウの搾りかすの上で集団が大きくなる秋に、有機リン剤3剤に対する感受性が上昇することから、有機リン剤に対する抵抗性と集団の増加過程に関わる産仔生産力という形質の関わりに注目し、その染色体分析を行いました。千葉大学大学院のときのように、もし至近的なメカニズムを探るという戦略を採用したとすれば、有機リン剤に対する抵抗性遺伝子がどのような反応経路を経て、産仔生産力に影響を与えるのか、ということを生理・生化学的に調べることになるのだろうと思います。しかし、現在の分析技術では、はっきりといってしまうと、かなり絶望的な研究になってしまっていただろうと思います。しかし私は、実際に、筑波大学の進化遺伝学研究室に所属していたのであり、私自身の興味が殺虫剤抵抗性の進化・集団遺伝学という側面にあったわけですから、これからさらに抵抗性の研究を進めるにあたり、筑波大学で行った産仔生産力と抵抗性の染色体分析から、集団内における抵抗性遺伝子の挙動についての進化・集団遺伝学的な洞察を得るという、究極的なメカニズムを探るという戦略を取ってきました。すなわち、筑波大学大学院で行った抵抗性と産仔生産力に関する実験の結果に基づいて、集団の数学的なモデルをつくり、実際に勝沼で観察されたような有機リン剤に対する抵抗性の遺伝的変異の変動が産み出されるかどうかについて探求していくという方向になります。エジンバラ大学の先生は、1970年代に、集団の増加過程や定常的な状態において、集団内に存在している遺伝的な変異がどのような振る舞いをおこすかに関する一連の研究を行っており、この分野の世界的な権威でもあるので、先生のもとで、今まで行ってきた殺虫剤抵抗性の研究についていろいろとご示唆をいただきながら、筑波大学での研究の続きを、細々とではありますが、進めていきました。私が卒業した後、筑波大学の研究室では、大学院生が、私が位置決定した抵抗性遺伝子について分子遺伝学的な研究を進めていると聞いていたので、抵抗性遺伝子についての詳細を期待しながら、昼間はショウジョウバエの死体を拾い集めながら、夜アパートに帰ってから、殺虫剤抵抗性の理論的な側面について、一人細々と研究していました。