産仔生産力と生存力の統合
筑波大学大学院のときに、産仔生産力を測定する際に、子孫が出てこない反復がいくつかあり、その処理について少し戸惑ってしまったことについては、以前お話ししました。集団の増加過程には、産仔生産力だけではなく、生存や繁殖に関わるさまざまな形質が関与しているので、子孫が出てこなかったこれらの反復については、産仔生産力とは異なる別の適応度形質として処理したのでした。この処理自体については、系統間で統計的に比較するときに、データの分布の正規性の観点からも妥当であったと考えていますが、しかし産仔生産力という適応度成分は、確かに集団の増加過程において重要な役割を果たしているには違いないのですが、産仔生産力以外の諸々の適応度成分を含んだ、統合的な、集団の増加過程における適応度そのものについて系統間で比較することができれば、集団の増加過程と有機リン剤に対する感受性の回復という現象の関係を、より明確に示すことができるでしょうし、それはそのまま、産仔生産力が感受性の回復という現象の中で果たしている相対的な重要性を示すことにもつながるだろうと考えられました。
筑波大学で産仔生産力の測定をしていたときに、成虫の生存力についてもデータを取っていたので、筑波大学を卒業した後も、それらを産仔生産力のデータと統合して分析する可能性について模索していました。そのような中で、内的自然増加率と呼ばれる、集団の増加過程における遺伝子型の適応度を測る適切な尺度を、筑波大時代に測定していた産仔生産力と生存率のデータから統合して計算するためのコンピューター・プログラムの書き方について、エジンバラ大学の先生からいろいろとご示唆をいただきながら、書き上げたのでした。正直に言えば、先生から教えてもらったようなものだったのですが、それでも、先生からプログラミング言語に関する本を拝借し、それを読みながら何日も自分で試行錯誤しながら、何とか試作プログラムをつくって、先生にみていただいたのちに完成させたプログラムでした。デラウェア大学において、統計学の授業でSASという統計プログラムの書き方については一応学んできましたが、一般的なコンピューター言語についてはまったく触れたことがなかったので、一から勉強したのですが、やっぱり自分の興味もあったので、勉強していてとても楽しかったですし、充実していて、あっという間に時間が過ぎてしまったと思います。
この内的自然増加率は、Euler—Lotka式と言われる式を使って、Newton-Raphson法という手法によって数値的に決定されるのですが、子孫が産み出されなかった反復については産仔数が0であるので、このままでは、それらの反復についての内的自然増加率は定義することはできません。なので、それらの反復を除いて分析するとともに、さらに他の統計分析法を取り入れることによって、これらの子孫を産み出さなかった反復を含めて分析することが可能となりました。このときに採用した統計的な手法は、ジャックナイフといわれる方法です。名前がちょっと変わっているので統計とは関係がなさそうですが、それでもれっきとした統計的手法の一つであり、この方法を使えば、子孫を産み出さなかった反復も含めて分析することができるので、集団の増加過程に関するよりトータルな形の洞察を得ることができるようになりました。さらに、抵抗性と感受性の遺伝子型の間において、適応度を比較するときの一つの方法として、ローカル・スタビリティー分析という方法を教えていただいたのでした。これは、ある遺伝子がまれであるときに、他の遺伝子型で占有されている集団に、そのまれな遺伝子をもった遺伝子型が侵入することができるか否かを問うことによって、その遺伝子の集団内での拡散の可能性を調べるとともに、遺伝子型の間の適応度の相対的な優劣を評価する分析手法でもあるといえるのではないかと思います。この手法を用いることによって、集団が増加している状態、あるいは定常的な状態にあるときに、集団内における抵抗性遺伝子の頻度の変化の過程を、より明確な形で評価できることになるので、私の興味の核心にあった、集団モデルを用いた殺虫剤抵抗性の遺伝的変異のダイナミクスに取り組むための、ひとつの研究手法を学ぶことができたのだろうと思います。
このように、今まで殺虫剤抵抗性という領域で研究を行ってきましたが、エジンバラ大学で集団の増加過程に関する集団遺伝学を専門とされていた先生の下で、この1年の間で多くのことを学ばせていただき、とても忙しかったですが、しかし、とても充実した時間を過ごさせていただくことができました。まあ、エジンバラ大学でお世話になっていた先生は、この分野の世界的な権威だったので、私が行っていたことについては、先生にとっては、恐らくなんでもないことだったのかもしれませんが、それでも、殺虫剤抵抗性の研究の領域では、これらのことは新たな試みだったわけですから、私にとっては大きな第一歩だったわけです。