遺伝的変異の集団モデル
前節で紹介した論文では、それぞれの遺伝子型は単独の状態で増加しているとした時に、一方の遺伝子型の個体数に対して、もう一方の遺伝子型の個体数がどのように変化していくかを、個体数の比を取ることによって検討していました。遺伝子型の内的自然増加率を求めるのと同じように、それぞれの遺伝子型の増加過程を、個体数の変動の過程として、より視覚的にとらえようとしていたわけです。しかし、ショウジョウバエのように、有性的に繁殖している実際の生物集団では、それぞれの遺伝子型はお互いに独立した状態で増殖しているわけではなく、一般にランダムに交配が行われているものとして考えられているのではないかと思います。もちろん私もそれはわかっていたのですが、ものは試しに、遺伝子型の間での交配を無視して、前節の論文の中で検討したような、それぞれの遺伝子型の増加過程をそのまま用いて抵抗性遺伝子頻度の変化を調べてみたところ、興味深いことに、遺伝子型が混合した状態でランダムに交配しながら増加していると仮定した集団モデルと、とても類似した平均値やバラツキの変動のパターンが出現したのでした。つまり、複数の遺伝子型が集団に混在し、それらの間で交配が行われ、子孫の間で異なる複数の遺伝子型が分離するにもかかわらず、見かけ上は、それぞれの遺伝子型が単独の状態で増加していると仮定した集団モデルと類似した結果が与えられたということになります。言ってみれば、ショウジョウバエという有性的に繁殖している集団を、それぞれの遺伝子型が無性的に増加している集団として扱っても、類似したパターンが現れる場合がある、ということになります。上でも述べましたが、集団のエイジ構造を考慮したうえで、さらに交配によって遺伝子のシャッフリングが行われ、さらにこのような集団の増加過程を考えるというかなり複雑な過程を、うまくすれば、それぞれの遺伝子型が単独で増殖している過程としてみなすことができるかもしれないことになるので、これはかなり大きなブレイクスルーになりうるのではないかと、私はその時に考えたのでした。
ただ、明確に遺伝子型間の交配を考慮に入れた集団モデルの結果とは、傾向は別にしても、厳密に一致するとはいいがたい場合ももちろんありました。しかし、厳密にやろうとすれば、通常の人間では恐らく手に負えなくなってしまうような複雑なプロセスを、このように極めて単純な過程として、少なくとも近似できるかもしれないという可能性は、集団モデルを学びにエジンバラまでやってきた一学徒としては、無視するにはあまりにももったいないことのように思えました。いやらしい言い方をすれば、これはおいしいのではないか、これはちょっとした発見なのではないかと思ったわけです。でも、なぜこのように単純化した集団モデルが、より厳密に遺伝子型間の交配を考慮に入れた、より複雑な集団モデルと類似した結果を与えたのかは、正直なところわかっていませんでした。ただ、抵抗性遺伝子の頻度の変動などをグラフにしたものを実際に目の当たりにし、変動のパターンがとても類似していたときの驚きや期待があまりにも大きかったので、これはひょっとしたら重要な知見なのかもしれないという希望をいだき、とりあえず、なぜそのような類似性が産み出されたのかを理解することは保留した状態のまま、この単純化した集団モデルを用いて、集団の増加過程における殺虫剤抵抗性の変動を検討した論文を書き上げ、エジンバラで行われた学会で発表するとともに、学術雑誌にも一度は投稿したのでした。しかし、残念ながら受理してもらうことはできず、しばらくそのまま保留した状態となってしまいました。私はこののちに、博士課程でお世話になっていた筑波大学の指導教官の研究室に、非常勤の研究員として再び戻ることになるのですが、日本に帰国したときに、投稿した雑誌で編集を担当されていた先生と直接面談し、この単純化したモデルの利点を説明したつもりでしたが、結局、ランダムに交配している集団モデルで改めて考察するように主張され、それが論文受理の条件であるといわれたのでした。なので、エジンバラでお世話になっていた先生が構築された、遺伝子型の間でのランダムな交配を仮定した、遺伝子型の内的自然増加率に基づく集団モデルを用いて、改めて論文を書き上げ、投稿することになりました。
遺伝子型が混在し、それらの間でランダムに交配が起こると仮定した集団モデルと、それぞれの遺伝子型が単独の状態で増加していると仮定した、単純化された集団モデルが、なぜ類似した結果をもたらしたのかについては、もちろんちゃんとした理論的な裏付けがあります。これらについては後の研究において、より詳細に議論することになります。