筑波大学での研究を終えて
筑波大学でお世話になっていた指導教官には、博士課程の大学院生として5年間、そして非常勤の研究員として1年間お世話になりました。博士課程のときもそうでしたが、研究員のときも、私がやりたいと考えた研究を行えるように、いろいろと手配してくださり、とても感謝しています。先にも申し上げましたが、筑波大学には、私がこれまで渡り歩いてきたような、伝統的な農学系の昆虫学研究室がありました。殺虫剤抵抗性の研究をするならば、農学系の研究室で研究したらいいではないかという声が聞こえてきそうですが、私はあくまでも進化遺伝学の枠組みの中で殺虫剤抵抗性という遺伝学的現象を研究していきたかったので、指導教官には迷惑な話だったと思いますし、いろいろとご面倒をおかけしてしまったとは思いますが、私自身、とても伸び伸びと研究させていただけたと思います。従来の、農学系の殺虫剤抵抗性研究の枠組みでは、恐らく不可能であったような研究の成果を産み出すことができたのではないかと思っています。これも指導教官のおかげだったと思いますし、指導教官には感謝するばかりです。ただ、筑波大学で行った6年間の研究をさらに進めることができなかったことは、とても残念ではありますが、新たな試みというものは、従来の枠組みの中にいる人々には理解されることも少ないということもまた事実だと思いますので、まあ、是非もないところなのだろうと思います。
高校時代を振り返ったところでも述べたように、私が中退した高校は、筑波大学の系列だか系統だかよくわからないのですが、とにかく筑波大学出身の教師がとても多くいました。その中で、特に柔道部をはじめとする運動部の教師たちが、生徒指導と称して生徒のことを平気な顔をして殴っていたので(当時は、体罰に関して、現在ほどうるさくはなかったのだろうと思います)、筑波大学にだけは絶対に進学すまいと思っていました。にもかかわらず、私が筑波大学に進学するつもりになったのは指導教官がいたからこそでしたが、もともと筑波大学にはあまりいい感情を持っていなかったので、やっぱり筑波大学の雰囲気には、あまり馴染むことができませんでした。指導教官が退官されるということで、少し寂しくはあったのですが、当然のことながら、指導教官がいなくなった筑波大学には興味もなかったので、私も次のポジションとして応募していたドイツでの研究に向けて、次の一歩を踏み出すことにしました(まだこの時点では、フェローシップ採用の可否はわかっていませんでした)。
私も、アメリカやイギリスで勉強し研究してきたので、研究室での思い出はいろいろとあると思いますが、筑波での思い出は、研究のこと以外にはほとんどありません。筑波では研究しかしてきませんでしたので、当然のことなのだろうと思いますが、私にとっては、研究をしていた時のことだけで十分なのだろうと思いますし、筑波で行った研究から産み出された論文が私のすべてなのだろうと思います。なので、私にとってこれほどまでも大きなものを与えてくださった指導教官には感謝してもしきれないと思っています。