台湾での研究
台湾の研究所
正式には、2007年8月1日から2008年7月31日までのポスドク契約ということでしたが、その知らせを2007年9月になって受け取りました。恐らく、急遽私のことを採用してくださることに決められたのではないかと思うのですが、契約としては8月からということで、本来であれば、すでに研究をスタートしていなければならないはずでした。しかしながら、台湾に滞在し、そこで仕事をするためのワーク・パーミット(労働許可証)もとらなければならないなど、台湾でポスドクとして研究するためには、煩雑な事務手続きが必要でした。私は、東京の港区にある台湾の通商代表部のようなところに行ってビザを発給してもらいましたが、ビザが発給された日付をみてみると、2007年9月10日となっているので、台湾の先生からFedexを受け取ってから、あわててビザを取りに行ったのだろうと思います。また、自宅で維持していたショウジョウバエを台湾に持ち込むために、さらに事務手続きが必要であり、いろいろな書類を作成しなければなりませんでした。ということで、台湾に実際に渡ったのは、2007年9月27日であり、10月1日から研究を開始することになりました。契約書で正式に決められていた開始日からは、2カ月遅れたことになります。もう日本では秋に近づいていた頃だったと思いますが、台湾の空港に下りたときに感じた、亜熱帯に特有な、ムッとするような暑さのことを今でも覚えています。
私のことを拾ってくださった先生は、ご夫婦で研究をされており、お二人ともアメリカで研究をされ、このときには台湾に戻られていたとのことでした。契約上の雇用主は奥さんのほうで、台北にある大学の教授をされているかたでした。契約上、私は台北にある大学でのポスドクだったと思うのですが、実際に活動をしていたのは、ご主人にあたる先生が勤務されていた台北市内の研究所でした。研究室でのセミナーの発表も、ご夫婦で主催されており、学生や大学院生も大学から研究所の方へやってきて参加していたので、ほとんど区別はなかったのだろうと思います。台北の中心部からは結構離れており、生物学の研究所だけでなく、法学や社会学などの文系の研究所も含む、いくつもの研究所が集まっているようなところで活動することになりました。台湾では、特に年配の人で日本語をしゃべれる人も少しはいたかもしれませんが、それでも周りには滅多にいないだろうと思ったので、故郷が恋しくなって帰りたくなっても(夜逃げしたくなっても)、台北の中心部に出るまでに、バスや電車を利用しなければならず、台湾語を話せず、理解もできない自分にとっては、逃げたくても逃げられない環境でした。語学が苦手な私は、もちろん今回も、台湾語を話すことができなかったのですが、外見的には同じ東洋人ということで、これまでの海外生活とは多少は雰囲気が違ったように思います。でも、そうはいっても、私も生活するのに困らないぐらいの英語は話せていましたが、台湾語はまったく話すことも聞いて理解することもできなかったので、アメリカやイギリスにいたときよりも、海外で生活することのプレッシャーはあったかもしれません。
台湾に、筑波大学で使っていたショウジョウバエを持ち込むときに、当局に提出した書類(のコピー)です。難しい漢字も見られますが、基本的には英語を使うことができました。(この写真の中の一部の情報は、個人情報保護のために、修正してあります。) 三代