認知症の祖母の介護(1)
これまで長々とお話ししてきましたように、大学に入学した18歳の時に、風呂もトイレもない4畳半一間のおんぼろアパートで一人暮らしを始めてから、次の研究職を見つけることができずに、40歳近くになって台湾から帰国するまでの20年以上の間、私は実家から離れて一人暮らしをしてきました。当時はまったくそんなことになっているとは思いもしなかったのですが、私が実家を留守にしていた間に、両親と一緒に住んでいた祖母は認知症を発症させ、私が台湾から帰国したときには、介護付き有料老人ホームに入所していました。一緒に暮らしていた両親と、認知症を発症した祖母との間に、いろいろなことがあったようなのですが、それらのことについては後になってから知ることになりました。
祖母には、長男である私の父親をはじめ、子供が何人かいました。以前は、長男である私の父親と母親とともに実家で同居していましたし、入所した介護付き有料老人ホームも実家から近いところにあったので(自転車で20分程)、私の両親が毎日のように老人ホームに顔を出していました。父親の妹にあたる2人の叔母達も、茨城や神奈川から何時間もかけて、月に数回祖母を見舞いにきていました。研究職をみつけられずに、無職のまま実家で、これまで行ってきた研究の結果について論文としてまとめようとしていた私も、両親や叔母達に混じって祖母の見舞いに行くようになりました。これまでの蓄えが多少あったので、それを食いつぶしながら論文などをまとめようとしていましたが、そうは言っても無職のまま実家に居候しているわけですから、私も何がしかの役に立たなければならないと思いました。ですがそれ以上に、前節で述べたP. B. メダワーの、高齢化社会の到来に対して“何かをしなければならない”という言葉に影響を受けたからだと思います。祖母の介護を手伝いながら、高齢者を介護するということ、集団が高齢化するということについて考えてみようと思ったのでした。
介護施設などでは、利用者の状態や施設のイベントなどの重要事項を介護職員の間に周知するために、“申し送りノート”のようなメモ帳を作っていることが多いと思います。両親や叔母達も、祖母を介護していくなかで、きょうだいの間で連絡を取り合うために、このような連絡帳を作り、祖母のことで気が付いたことや、オムツパッドの補充などのような連絡すべき事項を、その連絡帳に記録していました。祖母は2007年4月から、亡くなるまでの2012年12月までの5年以上の間、同じ介護付き有料老人ホームに入所していましたが、祖母の介護に関するその時の多くのことが、この連絡ノートに何冊にもわたって記録されています。両親に混じって、祖母が入所していた老人ホームで祖母の見舞いを私も手伝っていたことが記録されているのですが、例えば2009年3月の頃のページには、次のように記録されています。
3/28
室内清掃・洗濯物整理
お茶を飲む…“いも菓子”を喜んでいた
TVで高校野球を見る…“PLがやっているの”、“応援団は大変だね”等のコメント
U時間が判らない
隆洋(著者注:私のこと)が足の屈伸運動をさせる…本人も自分で動かしている!!
Sさん(著者注:施設職員)から入所時の本人の認識についてヒアリングあり
3/29 隆洋(著者注:私のこと)が来た
足が痛いと言うので、看護師さんを呼び診てもらった。
足を自分で動かせるし、風呂にも入れるので、様子を見ることに!!
3/30
足は問題ない様だ
“しわ”が増えたが顔色は良い
足のむくみ良好
下着類も冬物は持ち帰る
U補聴器を付けていないので会話が出来なかった
→付けてやると穏やかに話す
自分で髪をとかす
このように、私も両親や叔母達に混じって、認知症となって介護付き有料老人ホームに入所した祖母の介護を、わずかばかりでしたが手伝いつつ、これまでの研究についての論文をまとめたり、高齢者介護についての勉強を進めたりしていました。