ヘルパー2級講座(2)
介護に必要な技術とはいっても、その内容は多岐にわたります。スクーリングでも一通り座学を行ったのち、寝具の整え方、シーツの敷き方から始まり、身体の清潔(細部の清潔・清拭)、体位交換と褥瘡への対応、車椅子での移動、衣類の着脱、食事、排泄、入浴、レクリエーション、訪問介護計画の作成、記録・報告の技術などについて、実際に都心にある教室に通いながら、これらの介護技術を学んでいきました。教室に何人ぐらいの受講生がいたかは、はっきりとは覚えていないのですが、教室の中に4つくらいの介護ベッドがあり、数人で1組になって、介護する側と介護される側を順番に交代しながら、実技研修がおこなわれていったと記憶していますので、おそらく20〜30人ぐらいの受講生がいただろうと思います。なので、場所や時間の制約があって、とても残念なことだったのですが、それぞれの受講生が何度も納得のいくまで実際に練習することができるというものではありませんでした。介護の現場ではこういったことが行われるということについて、ほんの触りの部分を一通り体験することができたといった程度だったろうと思います。
それまでの40年近くの間、散々勉強してきましたから、自宅での学習は問題なくこなせていただろうと思います。むしろ、それまで触れたこともなかった新たな知識を吸収することができて、興味を持ちながら、とても新鮮な気持ちで勉強できました。しかし正直なところ、実技や実習の時間は、とても戸惑いました。それまでの40年近くの間、小学校、中学校、高校、大学と受験勉強に明け暮れてきましたし(小学校については、知らないまま受験させられていた)、さらには大学院生、研究員として研究や勉強に明け暮れてきたので、筑波でお世話になっていた指導教官にも指摘されたように、私は社会的な常識が大きく欠如していると思いますし、当時もそれは自覚していました。エジンバラでお世話になっていた教授から、研究者として社会の中で生きていくことの厳しさを叩き込んでいただいたので、少しはマシになっていたつもりではいましたが、それでも介護者として高齢者や障害者と向き合った時に、自分の配慮の至らなさといいますか、相手が何を考えているのかということについて、なかなか思い巡らせることができない自分を痛感することになりました。相手に対する思いやりだとか、相手が抱いている悲しさや寂しさ、あるいは嬉しさに対する共感といった領域の問題なのだろうと思います。こういう状況で人はどのようなことを感じているのか、考えているのかということを、自分はなかなか思い巡らせることができないことを痛感することになりました。都心にある教室で実技の研修を受けた帰りの山手線の電車の中で、その日の研修の中で突きつけられた自分の至らなさが思い出されるたびに、“自分はダメだなあ”と毎晩のように感じながら、家路についていました。