認知症対応型グループホームE(4)この国のゆくえ
結局、介護を必要としている高齢者にとって何が必要であるか、どういう生活を送りたいか、そういった“生活者”としての高齢者という視点が、現在の介護保険制度には全く欠けていると思いました。つまり、介護とは、オムツの交換や食事の介助、入浴の介助などといった身体介護さえしていればいいといったような、極めて貧弱な介護観が背後にあるのではないかと思います。恐らく、介護を必要としない健常な人々によって主に考えられ、そして運営されてきた制度だったのだろうとは思いますが、この制度を設計していく中で、設計者たちの中に、もし自分が介護を受けるときにはどうされたいか、あるいはどうしたいかといった視点が、残念ながらなかったのではないかと思いました。それと同時に、少子高齢化の波が押し寄せてきている現在の日本においては、切羽詰まっていて、それを制度として実現する余裕などなく、もう実現することができない理想論にすぎないということも、あるいは真実なのかもしれません。私が介護職として現場で勤務するなかで、高齢の利用者の方々との関わりと、そこでの体験を通して見えてきたこと、感じたことは、現在の高齢者介護政策の背後には、「国民の皆様は仕事が忙しくて、年老いた親の面倒なんてみている暇などないでしょう。夫婦共働き家庭の学童を預かるように、国としては、老人を一カ所に集めておいてテレビでも観させておきますから、どうか安心して一生懸命働いて日本経済に貢献してください」といった思惑があるのではないかいうことです。自分たちも、いずれは年老いて介護が必要になるにもかかわらず、そんなことで幸せになれると、本当にみんなは考えているのでしょうか?
また、この認知症対応型グループホームで勤務していたときに、有料老人ホームに入所していた認知症の祖母とグループホームの利用者の、終末期の看取りの問題に接する機会があり、とても考えさせられました。例えば、終末期にあったグループホームの利用者が居室で苦しんでいるまさにその時、ユニットの大広間では他の利用者たちや職員たちがクリスマス会を行っているといったことがありました。私自身、どうしたら良かったかわかりませんし、どうすべきだったか、今だに答えは見つかっていません。なので、べつに誰が悪い、どうすべきだったか、と誰かを責めるつもりは全くないのですが、ただこの現実はいったい何なのだろうかと思ってしまいます。介護に来ていたその苦しんでいる利用者の家族も、その状況を把握できていなかったのではないかと思います。実際に看取りとはどういうことなのかを理解しイメージすることができておらず、施設やケアマネの言うとおりにしていただけだったのではないのか、そんなふうに感じざるを得ませんでした。
いつ亡くなってもおかしくはない高齢の利用者の方々と日々接している介護職員であればこそ、利用者が亡くなっていくことに慣れてはいけないでしょうし、利用者の方々の尊厳は守られなければならないと思います。高齢化率がさらに上昇していく近い将来、介護の現場では、さらにこのような機会が増えていくのではないかと思いますが、人間の生死に関わる倫理観を、この国の将来のために、改めて問い直さなければならないのではないかと思いました。