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認知症対応型グループホームE(5)2人の祖母が残してくれた教訓

認知症対応型グループホームE(5)2人の祖母が残してくれた教訓

 

 母方の祖母が亡くなったのは、私がデラウェアから帰国して、筑波大学の博士課程で大学院生をしていたときでした。小学生や中学生の時に、学校生活に馴染めなかった幼かった自分にとって、田舎の祖母はとても大きな存在でした。長い間一人暮らしをしていたこともあったためだろうと思いますが、私がアメリカから帰国した年に、体の調子が思わしくなくなって入院してしまいました。今までアメリカに留学していて、なかなか祖母に顔を見せることができなかったこともあり、毎週のように病院にお見舞いに行きたい気持ちはあったのですが、忙しさを言い訳にして、あまりお見舞いにも行くことができませんでした。大学院での研究や勉強が忙しかったことは事実だったと思いますし、何よりも精神的にその余裕がなかったと思います。それでも今から思い返してみれば、大学院生だった自分にはいくらでも時間はあったと思いますし、お見舞いに行こうと思えば、おそらくいくらでも行くことはできただろうと思います。祖母が亡くなったときに、初めて取り返しのつかないことだったことに気がつきました。田舎の祖母に対して、介護できなかったこと、あまりお見舞いにいけなかったことは、私の数少ない心残りの一つになってしまいました。

 

父方の祖母は、認知症となって有料老人ホームに入所していましたが、亡くなってしまう最晩年の頃には、ある時から、いつも目を閉じて、こちらからの呼びかけにも、なかなか反応がないような、意識が混濁しているような状態となってしまいました。有料老人ホームのケアマネや巡回していた医師からは、もう98歳という高齢だからということで、積極的に治療はせずに看取りにされてもいいのではないかと暗に提案され、父親もしばらくの間、どうしたらいいか考えていたようです。

 

当時の祖母は、普段でも私のことを、以前一緒に暮らしていた孫としてはっきりと認識できていなかったように思います。それでも、このような意識が混濁してしまった状態になっていたときに、ほんの一瞬だけでしたが、ふと目を覚まして、私のことを昔のように呼びかけようとした瞬間がありました。昔よく私に呼びかけてくれた時の表情が、一瞬だけでしたがあらわれたのです。私のことを、全く忘れ去ってしまってはいなかったことが感じられたこともあり、私自身としては、このまま積極的な治療をせずに看取りに移行することは、正直受け入れがたいものがありました。また、母方の祖母に対して、見舞いにもろくに行けずに後悔したこともあり、父方の祖母に対しては、できるだけのことはしてあげたいと思っていたため、父親には、私自身は看取りには反対である気持ちを伝えました。しかし最終的な判断は父親がしなければならないと思っていましたし、その判断には従うつもりでいました。

 

結局、父親は祖母を入院させることにしました。誤嚥性の肺炎だろうということで、家から比較的近いところにある病院に、2週間ほど入院することになりました。老人ホームの時と同じように、両親と交代しながら毎日のように病院にお見舞いにいきました。肺炎の症状も改善したので、有料老人ホームに戻ることになったのですが、でも老人ホームに戻ったその晩に亡くなってしまいました。

 

病院から退院した次の日に亡くなってしまったわけですから、結果から見れば、意識が混濁しているような状態だった98歳の祖母を入院させたことには、意味がなかったと考える人も恐らくいるのではないかと思います。でも、残された私たちにしてみれば、やれることをしてあげられたという気持ちがとても強く残りました。少なくとも、母方の祖母の時のような後悔が残ることは、私自身なかったと思います。正直、祖母はよっぽど老人ホームに戻ることが嫌だったのだろうと思いましたし、なんだか祖母らしいなあと納得していました。

 

もっと何かしてあげられたのではないかと後悔の気持ちが残るのと、やれることはしてあげられたと納得して見送ってあげることができるのとでは、残される方にとっては、精神的にも、とても大きな違いがあるように思いました。年老いた親の介護が大きな問題だと考える理由の一つは、ここにもあるのではないかと思います。残される者として、後悔を引きずりながらその後の人生を歩まなければならないのか、それとも、できるだけのことはしてあげられたと納得しながら生きていくことができるのか。これはとても大きな違いがあるように思います。私は、2人の祖母から、対照的な2通りの経験をさせてもらうことができました。ありがたいことだったと感謝しています。