認知症対応型グループホームD(2)グループホームの比較
以前勤務していた有料老人ホームGと同じ施設内にあったグループホームで、週1日程度で働くことになりました。私を誘ってくれた施設長の思惑としては、最初のうちは、職員が非常に不足していた有料老人ホームで働いてもらいたかったようなのですが、これまで都心の認知症対応型グループホームで働いていたこともありましたし、また認知症高齢者が幸せに暮らしていけるような社会を、現場の中で考えていきたいという希望も持っていたので、有料老人ホームではなく認知症対応型グル-プホームでの勤務にさせていただきました。
私自身、2つの異なる認知症対応型グループホームで勤務させていただいたことになるので、同じグループホームとは言っても、まったく異なるホームの性格を体験することができて、とても有意義だったと思います。この時に勤務していたグループホームは、有料老人ホームGやショートステイ、デイサービスなどと同じ施設内にありました。当然、同じ施設内には、異なる職場で勤務する多くの職員がいたわけですが、その中でも特に有料老人ホームGの職員の影響力が強かったのではないかと思います。と言いますのは、5階建ての施設の中で、3〜5階部分が有料老人ホームだったこともあり、有料老人ホームの職員もそれだけたくさんいたためだろうと思われます。職員が足りない時には、階をまたいで職員の行き来があったのだろうと推察できました。実際、私が有料老人ホームで働いていた時に、同じフロアで働いていたシニアの職員が、このグループホームでも働いていました。なので、都心にあったグループホームとは異なり、このグループホームの特徴は、有料老人ホームの感覚で職員がグループホームでも働いていることなのではないかという印象を受けました。つまり、都心のグループホームで働いていた時には、利用者の方々の活動の機会を奪わないように、できる限り手を出さずにサポートするように求められていましたし、私も、こちらから働きかけるときと利用者にお任せするときの、その塩梅がとても難しいと感じていたのですが、このグループホームでは、職員は有料老人ホームと同じような感覚で働いていたので、利用者にお任せする部分はほとんどなく、基本的には職員が一方的にサービスすることがほとんどでした。利用者自身が料理を作ったり、居室を掃除したりすることもなく、その代わりに、下の給食室で作られてきた食事が時間になると上がってきて、それを職員が配り、居室も職員が朝のうちにパッパと掃除機がけをするといったものでした。グループホームでは、利用者の数は1ユニット9人が基本ですので、何十人もいる有料老人ホームの感覚でサービスをすることは、人数が少ない分、かえってとても楽なことになります。残念ですが、利用者の方々はホールでテレビを見るくらいしか、することはなかったのではないかと思います。このグループホームでは、認知症高齢者の地域での生活ですとか、これまでの日常生活の機能訓練的な要素については、ほとんど顧みられていなかったように思います。
ただ、誤解されたくはないのですが、だからと言って、このグループホームを批判するつもりも、ましてやこのグループホームで働いていた他の職員のことを批判するつもりもまったくありません。職員はみなさんそれぞれ一生懸命に働いていましたし、私自身、そこで働いていたわけですから、批判などできる立場にはありません。では、都心のグループホームとここのグループホームとの間の決定的な違いは何かといえば、それはやはり職員の数だったのではないかと思います。都心にあったグループホームは、日中には、少なくとも3人以上の職員が勤務しており、それこそ利用者と一緒に、近くにあるスーパーまで買い物に行くことができましたし、一緒に料理を作ったり、ご自身で居室の掃除をお願いしたりすることもできました。しかし、このときのグループホームは、日中のシフトは2人で回すことが多かったのではないかと記憶しています。1人の職員が排泄介助でトイレに入ってしまったり、何かの用事で利用者の居室にしばらく入ってしまったりしてしまうと、もう1人は利用者の転倒などが起こらないように注意しながら、ただ何もせずにフロアでじっと目を光らせているほかなくなってしまうわけです。なので、職員はテキパキと仕事をこなして、できる限り事故が起こらないように注意することぐらいしかできませんでした。都心のグループホームは社会福祉法人が運営の主体でしたが、ここのグループホームは一般の企業が運営していたということも大きかったのではないかと思います。つまり、経営の状態ですとか、そもそもの企業の理念といったところで、職員の不足を補おうと努力している雰囲気はあまり感じられませんでした。なので、まあ、週に1回程度のパートの身分だったので、この件について社長メールを出すといったようなことは考えずに、最低でも事故が起こらないように、できることをやっていこうとしていました。