高齢者介護の進化遺伝学(1)何かをせねばならない
台湾での研究員の契約は更新しないことにしていたので、台湾にいたときから日本でのパーマネントに近い研究ポジションを探してはいたものの、手応えはまったくなく、2008年に、結局無職のまま帰国することになってしまいました(以前のブログ参照)。認知症の祖母の介護を手伝いつつ、貯金を食いつぶしながら、これまでの筑波大学での殺虫剤抵抗性の研究やエジンバラで行った老化の進化の研究について実家で振り返っているときに、改めて読み直していたP. B. メダワーの論文の中で書かれていた、“何かをせねばならない”という一節から受けた衝撃に端を発して、私がこれまで学んできた進化遺伝学を背景としながら高齢者介護について考えていこうと思いたったわけですが(以前のブログ参照)、実際に介護施設などで介護職員として数年にわたって働いてきた経験を通して、私自身が高齢者介護について身をもって学んできたことを、これまで何日間にも渡って長々と書き連ねてきました。ここからは、介護の現場で高齢者介護を実際に学んできた経験を通して、高齢者介護を進化遺伝学的に考察するという本題に入りたいと思います。ただ、この章に関連する多くのことについては、すでに拙著『高齢者介護の進化遺伝学 なぜ私たちは年老いた親を介護するのか?』において述べているので、ぜひそちらを参照していただければと思いますが、高齢者介護を進化遺伝学的に研究することの背景などのような裏話的なことをこれから述べていければと思います。
高齢者介護を進化遺伝学的に考えて行くその背景には、血縁選択による利他的な行動の進化に関する理論があったわけですが、もちろん、進化遺伝学を学んでいくなかで、利他行動の進化や包括適応度の理論などについては、講義や書籍などで知識を得てはいました。しかし、年老いた親を介護するという人間の行動に対して、これらの進化遺伝学的な理論を適用して考察するというアイデアがいつ頃芽生えたのかは、正直なところ覚えていません。しかし、かなり早い段階から持っていたように思います。高齢者介護の問題に興味を持った最初の頃から持っていたように思います。と言いますのは、台湾から帰国して、今まで行ってきた研究を振り返っていくなかで、イギリスのエジンバラでお世話になっていた教授が書かれた、利他行動の進化に関する論文を読んで、とても興味をもったからです。このエジンバラの教授が書かれた論文では、利他行動の進化について、エイジ構造を取り入れた集団遺伝学モデルを用いて解析がなされていました。エイジ構造を取り入れたことによって、高齢者介護の本質的な側面とも言えるような、エイジ・グループ間での相互作用のような、従来のモデルでは取り扱うことができないような側面に光をあてることが可能となりました。このような、エイジ構造を考慮した進化・集団遺伝学的モデルを高齢者介護という人間の自然本性にも関わるような行動・性質に適用すると、なぜ私たちは年老いた親を介護するのかという説明困難な問題に出くわすことになります。
ここまで、いろいろと介護の現場で高齢者福祉・介護について私自身の身を以て経験してきたことを述べてきましたが、やっぱり何と言っても、高齢者介護は、金銭的にも、時間的にも、そして精神的にもとても大変なことであるということが改めて身にしみて感じられました。では、なぜこのような大変なことを人は引き受けるのでしょうか? この問題は、おそらく介護を経験したことがある人であれば、何度となく疑問に思われてきたことなのではないかと思います。しかし、進化遺伝学的に考えてみると、これはそれほど単純な問題ではありません。とても難しいことだろうとは思いましたが、これまでにいろいろと考えてきたことを、言語化してまとめてみることにしました。ただ、人間自身や人間の行動を科学的な分析の対象とすることは、まだ歴史的にも日が浅く、わかっていないこともたくさんあるでしょうし、タブーとされていることもたくさんあると思います。しかし、少子高齢化が進展し、人口が減少しつつあるなかで、しかもお年寄りの割合が増加しつつある現在、将来に対する不安があるにもかかわらず、わからないことがあるからと言って、何も主張、行動しないでそれで良いのか? 科学をこれまで学んできた一人の人間として、現状の説明・解釈で満足し、将来予測されている危機に対して何もしなくてそれで良いのか? 結局、現在の少子高齢化と、それに伴う多くの困難は、臭いものには蓋をして、解決を図ることなく先送りしてきたことが根本的な原因なのではないのか? 私がこれまで行ってきた高齢者介護の進化遺伝学的研究は、P. B. メダワーの“何かをしなければならない”という一節に対する私なりの主張、行動の結果です。