高齢者介護の進化遺伝学(3)親と子の関係を進化遺伝学的に眺めてみる
このように、一見したところ矛盾しているかのように見える、ハミルトンの進化理論と高齢者介護という実際の人間の行動との間の隔たりを、私がこれまで学んできた進化遺伝学を背景として、今まで考えてきました。例えば、クジャクのオスの飾り羽ように、生存に対するコストが大きいと考えられている形質が集団内で維持されているような場合、そのコストを上回る何らかの有利性がその形質にはあり、その有利性によってその形質は集団の中で維持されていると考えられます。認知症の祖母の介護において考察したように、高齢者の介護には実際に、金銭的にも、精神的にも、そして肉体的にも莫大なコストがかかっていますが、このようなコストのかかる利他的な行動をひきおこすすべての心理的なメカニズムは、自然選択をはじめとする集団遺伝学的なプロセスを介して存在しているはずですので、高齢者介護は多くの側面において非常にコストがかかるという事実にもかかわらず、年老いた親を介護するという行動が一般的に行われているとするならば、その莫大なコストに見合った何らかの有利性が親子間の関係のどこかにあるはずだと考えられるわけです。このようなことから、高齢者介護という多くの人間が行っている行動を進化遺伝学的な観点から検討する必要がでてきます。
それでは、親子間の関係の中のどこに、あの高齢者介護の莫大なコストを上回るだけの有利性があるのでしょうか? まず真っ先に検討されなければならないことは、乳幼児期の赤ん坊とその親との間の関係だろうと思います。といいますのは、私たち人間は、生まれたばかりの時には自ら歩くこともできず、ましてや自分で食べものを得ることもできない、全く無力な状態で生れてくるのであり、乳幼児期には、他者、特に親の助けがなければ全く生存することができない無力な存在であるためです。それゆえ、赤ん坊として生まれてきた私たちは、少なくとも一人で生きていけるようになるまでは親に養育してもらわなければならないのですが、長い長い進化の過程で人間が経験してきたような、猛獣や猛禽類などが絶えずうろついていたような大昔の環境では、親も子供から片時も目が離せなかったでしょうし、絶えず赤ん坊を抱きかかえ、赤ん坊のそばから離れないようにしていたでしょう。子供が歩けるようになっても、子供は親の姿が見えるところから片時も離れなかったでしょうし、親の姿が見えないときには、親を求めて泣いたり叫んだりしただろうと考えられます。
このように、私たち人間は、赤ん坊として誕生して以来、親との間にアタッチメント(愛着)といわれる、特定の他者、特に親との近接をもたらす強力な情緒的絆を確立しますが、乳幼児である間は他者によるケアがなければ生存することができない以上、養育者、特に親との間に確固としたアタッチメントを発達させるような遺伝的傾向性は、特に捕食者がうろついていたような太古の環境では乳幼児の生存率を増加させただろうと考えられますし、このような親子の間のアタッチメントの関係は、“揺りかごから墓場まで”と表現されるように、一般に全生涯にわたって続くと考えられます。それゆえ検討しなければならないことは、将来莫大なコストをかけてまでも年老いた親を介護しなければならないほどの強力なアタッチメント関係を、独力では生存することができない乳幼児期に親との間で確立することは、たとえ高齢者介護に適応度上の見返りがないとしても、進化遺伝学的な観点から有利となりうるのかどうか、ということなのではないかと思います。言い換えると、将来莫大なコストを背負ってまでも年老いた親を介護してしまうくらいの強力な絆を乳幼児期に親との間で築くことは、進化遺伝学的な観点からみて利益があるかどうか、つまり集団の中でこのような行動が増加して拡散していくかどうかという疑問を問うことになるのだろうと思います。そこで、高齢者介護を進化遺伝学的な観点から検討するために、進化遺伝学的モデルを用いてアプローチすることにしました。なぜならば、進化とは集団内における遺伝子頻度の変化として定義されており、それゆえ形質の進化は、たとえそれが目に見えない心理的な形質のようなものであったとしても、最終的には、遺伝子頻度における変化やそれに類する平均値の変化などの観点から理解されなければならないためです。