翻訳作業 後期第8日目
今日から次の節に進みます。私が高齢者介護の進化遺伝学を研究してきた理由について述べています。私は本文の中で以下のように述べています。
私がこの研究を行ってきた理由
父母、祖父母をはじめ、私のことを支えてくれた多くの方々のおかげで、私はこれまでとても良い人生を送らせてもらうことができたと思います。残念ながら、私自身聖人ではないので、必ずしも人には誇れないようなこともしてきたかもしれませんが、それでも悔いのない、良い人生だったのではないかと思っています。人から自分の人生について尋ねられた時に、恐らく迷わずにこう答えることができるのではないかと思います。しかしそうは言っても、よくよく考えてみますと、ああしておけばよかった、ああしたかったと思うことがないわけでもありません。その一つは、母方の祖母の介護ができなかったこと、その祖母の葬儀に出られなかったことです。(本文 P. 122)
私は、これまでとても良い人生を歩ませてもらってきたと思います。今は、なんの悔いもないと思って生きています。実際、これまでコロナ・ワクチンを3回接種し、3回目を接種したときに半分死にかけましたが、正直生き残ることができてラッキーだったと思っています。でも、たとえワクチンを打って半分死にかけていたあのときに、眠ったままそのまま死んでしまっていたとしても、まあ、なんの悔いもなかったのだろうと思います。笑ってあの世へ旅立っていたのではないかと思います。とはいえ、私のことをとても可愛がってくれた祖母のことを考えると、やはりこんな私にも悔いが残っていることに改めて気付かされます。そういうことで、以下のような英訳を得ました。
The reason why I have conducted this research
I believe that, thanks to the support of many people, including my parents and grandparents, I have been able to lead a very good life so far. While I am not a saint and may have done things I am not necessarily proud of toward others, I still believe that I have lived a good life with no regrets. When someone asks me about my life, I believe I can probably answer this without hesitation. However, having said that, upon careful reflection, there are not necessarily no time when I wish I had done something like that or wanted to do that. One of them is not having been able to care for my maternal grandmother and not having been able to attend her funeral.
私は介護職として実際に高齢者介護施設で勤務していたときに、家に帰りたがっている認知症の高齢者、家に帰りたがっているデイサービスなどの利用者をたくさん見てきました。やはり、介護保険制度による高齢者の介護は、基本的には、高齢者本人のためのものではなく、高齢者を取り巻いている周りの人たちのためのものだという印象があります。実際に介護職を経験してきたものとして、この印象をおそらく生涯持ち続けるのではないかと思います。確かに、単独世帯の認知症高齢者の問題など、介護保険制度を利用しなければどうにもならない場合があることはわかるのですが、あれだけ帰りたがっている高齢者たちのことを考えると、なんのための介護なのか分からなくなりましたし、なんだかんだと騙し騙し施設に押し留めていることに、介護職としていたたまれない思いをしてきました。なんとか、高齢者介護の最適なあり方があるのではないかという思いで、研究を始めました。おそらく家族の在り方や労働の問題、経済の問題とも絡んでくると思うので、かなり大掛かりなストーリーになるのではないかと思いますが、その基本にあるのは、私自身、筑波大学の大学院生だったときに、大好きだった祖母をお見舞いにさえ行くことができず、また葬儀にさえも出席できなかったことが、大きな悔いとして心の底にあるからだと思います。
三代