翻訳作業 後期第31日目
本日は、昨日と同じ段落の続きです。高齢者からの次世代に対する寄与について述べているところです。私は以下のように述べています。
健康なうちから自分自身の老後を考え、思い浮かべていく中で、それを実現するためには子供や家族と話し合わなければならないでしょう。その時に、多くの人は、子供や家族の面倒にはなりたくないと考えるのかもしれませんが、より良い老後を送るためには何が必要なのかということを子供や孫たちに考えさせ、イメージさせる機会にもなり、それは次世代への負担ではなく、むしろ貢献であると言えるのではないかと思います。なぜならば、いずれは私たちも高齢者となり、介護が必要になっていくためです。新たな選択肢を得ることができれば、それだけ多くの可能性が拡がることになります。高齢者介護が今後深刻な問題となると予測されている近い将来に、高齢者からのこれ以上の貢献は恐らくないのではないかと思います。(本文 p. 131〜132)
年老いた親の介護は、自分が介護される時を具体的に考えるとても良い機会になるのではないかと思います。将来の自分を考える絶好の機会なのだろうと思いますが、親とは離れて暮らしていたりして、子供や孫の世代には、自分の親の介護が見えないようになっているのではないかと思います。認知症は、突然何もかもわからなくなってしまう恐ろしい病気ではありません。認知症になった高齢者でも、毎日笑いながら過ごすことだって可能だと思います。認知症になった自分の親を介護しながら、自分が認知症になった時のことを考えることは、将来認知症になって介護が必要になった時の自分を考える絶好の機会でもあると思います。と言うことで、以下のような英訳にしました。
As we contemplate and envision our own later stages of life while we are still healthy, it becomes essential to engage in discussions with our children and family to make those visions a reality. During such conversations, many individuals may express concerns about not wanting to be a burden to their children and family. However, it also presents an opportunity to prompt our children and grandchildren to reflect on and envision what they need for a better quality of life in their later years. I believe that this is not a burden on the next generation but rather a valuable contribution. This is because, inevitably, we will all age and may require nursing care. The broader range of perspectives we possess, the greater the possibilities we unlock. In the near future, where elderly care is predicted to become a significant issue, I believe that there will be no greater contribution from the elderly.
私は、高齢者施設で介護職として働いている時、施設の高齢の利用者も、そのご家族も、これでいいと思っているのかと思いながら働いてきました。例えば、ある施設で働いていた時に、利用者のお一人の方が終末期だったことがあるのですが、酸素マスクをしながら苦しそうにしていた施設の利用者の方も、付き添いに来ていたご家族の方も、本当にこの状況について疑問に感じていないのだろうか、この状況をなんとも思っていないのだろうかと思いながら、介護職員として状況の推移を見守っていたことがあります。恐らく、当のご本人たちは他の選択肢を思い浮かべることさえできなかったのではないかと思います。私たちが年老いて介護が必要になった時、私たちの前には、知らず知らずのうちにレールが引かれてしまっており、みんな考える余裕もなく、高齢期の過ごし方がもうすでに決められてしまっているのではないかと思います。介護が必要になったら、老人ホームに行くことしか選択肢はないのか、他にもいろいろな選択肢はあると思います。もちろん、介護を必要とされている高齢者の意向が尊重されなければならないと思いますが、嫌だと言うことを無理やり行わせることが介護ではないと私は考えています。 三代