翻訳作業 後期第32日目

翻訳作業 後期第32日目

 

本日は、次の段落へと進みます。私の両親に対する介護について、私自身が考えていることを述べています。私は以下のように記述しています。

 

自分の両親の具体的な介護についてですが、今後両親ともいろいろと話し合いながら、何をするか、どうするか、といったことを決めていくことになるのだろうと思います。ただ、私のこれまでの介護職としての経験や、介護施設で私が関わる機会があった利用者の方々のことを考えると、恐らく両親も、何か特別なことを望んでいるとは思えません。毎日歌を歌ったり、何かのゲームをしたりといったことは、恐らく望んではいないと思います。何も特別なことはない、今まで通りの生活をどのようにすれば継続することができるか、これに尽きると思います。ただ、これが一番困難なことであるということも事実だろうと思います。それが難しいから、高齢者介護の問題がこれほど大きな問題になっているのだろうと思います。父親、母親、さらには兄弟のあいだでこれから話し合い、さらには、どうすれば甥や姪を含む次の世代へ寄与することができるかを考えていかなければならないと思います。(本文 p. 132)

 

昨年のゴールデンウィークの頃、私の父親が体調を崩してしまい、かなり深刻な状況になってしまったことがあります。この頃の出来事については、いずれお話ししていかなければならないと思いますが、我が家にも激震が走ったような、深刻な事態となってしまいました。幸い、大きく崩れることなく、日常を取り戻すことができましたが、これもひとえに、父親、母親をはじめ、きょうだいとうまく連携をとることができ、お互いによくコミュニケーションをとることができたからだと思います。これまで話し合いを行なってきたことが、多少なりとも活かされたのだろうと思います。上の日本語の文章については、以下のように英訳しました。

 

Regarding the specific caregiving for my parents, I believe I will need to have discussions with them in the future to decide on the best course of action and how to proceed. However, when I reflect on my past experiences as a care worker and the elderly individuals I have had the opportunity to care for in care facilities, I do not think my parents necessarily expect anything out of the ordinary. I believe they do not necessarily wish to sing songs or play games every day. I think it is more about how they can continue to live their lives as they have been. There is nothing particularly special about it. However, I also acknowledge that this is the most challenging aspect. I believe that's why the issue of elderly care has become so prominent. I believe it is necessary for my father, my mother, and even my siblings to engage in discussions and contemplate how my parents can contribute to the next generation, including nieces and nephews.

 

私は現在、両親と同じ家に住んでいますが、もし私がいなかったら、父親と母親が二人で暮らしていたことだろうと思います。もし父親に介護が必要になったならば、母親一人に父親の介護を任せることは恐らくできないだろうと思います。これは、精神的にも肉体的な観点から見ても難しいと思います。とすると、そうなってしまった場合、祖母と同じようにどこかの老人ホームに入所するということになるのだろうと思いますが、そうなってしまうと、難しい性格の父親ですから、恐らく老人ホームでの生活には高い確率で馴染めないだろうと思います。最悪の場合、大きく寿命を縮めてしまうことになってしまうと予測されます。多少介護職としての経験が私にはあるので、父親に介護が必要になったら、私が直接介護しながら、父親には自宅で過ごしてもらうこともできると思いますが、何よりも、”私が”と言うことではなく、老夫婦のほかに誰かが存在するということは、高齢者介護においてはとても大きな意味を持っているのではないかと思いますが、皆さんはどうお考えになるでしょうか。”私だから”と言う部分も多少はあるのかもしれないのですが、私ではなくても、誰か(血のつながりのある子供であると仮定していいと思います)が近くに存在するということが、高齢者介護においてはとても重要なのだろうと私は考えています。  三代